Images of 木梨鷹一
1980年、帝京高校の同級生である石橋、木梨によりコンビ結成。1982年に『お笑いスター誕生』でグランプリを獲得 1980年代半ば『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』などの出演によって、若者を中心に爆発的な人気を獲得する 1987年『ねるとん紅鯨団』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる 翌1988年には、代表番組『とんねるずのみなさんのおかげです』が始まり、開始直後から20%越えの高視聴率を記録 社会現象になるほどの番組となり、彼らの地位が確立した その後も『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』、『とんねるずのハンマープライス』、『とんねるずのみなさんのおかげでした』など名番組を輩出する。石橋ほどの頻度ではないが主に和田アキ子のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を、高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)に出演したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる 『お笑いスター誕生!!』の出演までは、賞金を合計で多く得るために、意図的にバラバラで出演することもあったという。帝京高校卒業後、西武ライオンズの入団テストを受けるが不合格となっていた石橋はホテルセンチュリーハイアット、木梨はダイハツと2人とも一般企業に就職するものの、『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジ決意を機に再会 当時のコンビ名は「貴明&憲武」 漫才ではなく、モノマネや一発ギャグ、アニメの『魔法使いサリー』や『サンダーバード』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。退社後の1980年に正式にコンビ結成。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう またこの時期、同番組担当の日本テレビ・赤尾プロデューサーの紹介で、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わず、受けなかった。『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて、特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。石橋貴明は素人時代に『TVジョッキー』で竹中直人と知り合いそれ以後親交が続いている また『お笑いスター誕生!!』の出演者らとも交流を深めた 特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった 他に小柳トム(現:バブルガム・ブラザーズのブラザートム)やコロッケや草野球友達としてツーツーレロレロ等と交流があった バブルガムブラザーズや同い年のTRFのSAMとはディスコ仲間でもある 1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた 特に、石橋とグッチ裕三との関係は仲が非常に良く、元妻・鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとは『お笑いスター誕生!!』以来の交友がある。基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上は漫才ブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊、田原俊彦、久保田利伸、元チェッカーズのメンバーなどはプライベートでも会う友人である。ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた ちなみに初共演は『オールナイトフジ』である その後『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に繋がった また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました 」と礼を述べた 1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなってしまったが、はっぱ隊が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の一人のタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずの二人が行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道に進む決心をしたという ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている 2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している このことはとんねるずの著書に記載されている 若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている 現在も交流はつながっており、年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演している。たけしの最初の弟子であるそのまんま東(東国原英夫)とは、彼がまだたけし軍団に入る前に組んでいたツーツーレロレロで同時期に『お笑いスター誕生!!』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある 『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラーでもあった。これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたことや、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである 記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、2012年1月1日から1月3日までCS放送のホームドラマチャンネルでとんねるずがデビュー当時に出演していた日本テレビの『お笑いスター誕生!!』の選りすぐりの3本を放送した「お笑いスター誕生!! セレクション」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送され、2017年からTBSチャンネル2で出演作の「時間ですよふたたび」「~たびたび」の再放送が行われるようになった。