Images of 村角泰
8時ごろ東京へ行こうと家を出た。小田原厚木線に乗ると東京料金所から17kmの渋滞とあった。「どうしても行かなければならないのではないから、下りに行こうよ」「じゃぁ、どこへ行く?」「泰阜村(やすおかむら)に行こうよ」てなことで、大井インターから下りにのった。
下りはたいてい沼津から乗る。大井からはそんなにのらない。で、足柄SAにある浴場をのぞいてみようと、ここに止めた。ちょっとした大衆浴場かなと思っていたら、大きな建物。休憩施設も、コインランドリーもある。お風呂を楽しんでいる間洗濯も出来るということらしい。
夏姿の富士山を横目に、大月から中央高速にのる。八が岳も南アルプスもそんなに高く感じない。高い山を見慣れてしまったせいかも。諏訪湖から久しぶりに名古屋方面にわかれる。伊那谷をすぎ飯田にはいる、飯田には友人がいたから何度も来ている。ここを拠点にして妻籠や馬込も何回も行った。飯田の名所をまわるとスタンプを押してくれるラリーも参加したことがある。リンゴが色づいている。ウチがとっているのも飯田近在のリンゴだ。
天竜峡をめざす。地図で見るとそこらへんから泰阜に入る道がある。飯田線天竜峡駅ちかくにソバ屋があった。お昼にしようと「こんにちは」と中に入ると、年配の男性が二人カウンターに座っていた。一人が「お客さんだよ」と奥に知らせに行った。常連さんだ。「暑いですね」と声をかけると、「どこから来たの」から始まって、世間話が始まった。私の隣のおじさんが「私はね70歳になるんですよ」と。「私は今日で67歳ですよ。そんなに違わないんじゃありませんか」するともう一人の白髪の男性が「私も67歳」「じゃぁ、12年組みですね」「そうそう」すっかり打ち解けてしまった。
70歳は5年間名古屋で暮らしたことはあるが、あとは全部この町で暮らしている。今は役場のゴミ集めをしている。67歳は郵便局を退職して、ゴミの車の運転手をしている。「ウチにぼけっとしていたら、ぼけちゃうもの」二人は40年来の仲良しだという。「いいですね。こんな良い町で適当に働けて、良い友達がいて、幸せですね」「その通りだ」とうれしそう。ここの時間はゆっくりと温かく流れているようだ。二人とも定年後の清掃の仕事だから、ここの町は民間委託なのかな。それとも臨時職員にしてあるのかな。年よりも働けることはいいことだ!
泰阜村への道をきくと丁寧に教えてくれた。県道1号線が走っているんだが、広くなったり、細くなったり、大変な1号線だ、とも。ついでに美味しい地酒はあるか、と聞くと「キクスイ」というのを教えてくれた。飯田のお酒だという。蔵元は飯田の街中にあるとも。いまさら戻れないけど、どっか酒屋があったら買ってこう。なら天竜峡を渡らずに、こっちの道を下ると峰竜太の実家の酒屋がある。そこで買えば良いと教えてくれた。峰竜太はここの出身だったのか。だから峰と竜を使っているんだ。こんな話でまた花が咲いた。この調子でしゃべっていたら、時間がなくなってしまう、そこで食事が済んだのでお先にと腰を上げる。峰竜太の実家はわからなかったので、天竜峡を渡って泰阜村を目指す。
なるほど県道1号線だ。しかも細くなったり、ひろくなったり、工事中の回り道ありでひどい道だ。ところが泰阜村に入ると2車線の道はいい。途中、桜基(さくらもと)公園によった。エドヒガンの老木が2本ある。故事来歴が書いてあったので、写真を撮る。先ずは役場を目指す、通り道に植えられたマリーゴールドの黄色が目立つ。道端の花はこの村の人たちの心意気だろう。べつに観光のためのものじゃないだろう。
泰阜村の基本情報
面積 64.54km2
人口密度 32人/km2
世帯 748世帯
人口 2,097人
1次産業 17.8%
2次産業 39.0%
3次産業 43.2%
泰阜村は住民投票で自立の道を選んだ。この数字を見る限り、よくやれるなと思ってしまう。はたから見れば、山間に点在する集落を集めて出来た村で、緑豊かな自然以外なにもありそうもない。土地は肥沃だそうだが。財政力指数もたしか0.3ぐらいだった。人口は少ない、面積は広い、そんな村が自立を宣言したのだ。そして独自の自立への道を模索している。施策はテレビでも見ている。
ところが、この村にある学校美術館建設の経緯を知ってびっくりした。自立自尊はいまにはじまったことじゃない。これは村人の基本精神になっているのではないか。こういう土壌に培われてきた精神が、こういう村を作り上げてきたのだろう。むらづくり、まちづくりとは住民の精神土壌も必要なのだ。目先のことにとらわれない、自分たちの生活を守る意識と協力。これがなければ自立は出来ない。
山本有三の作品に「米百俵」というのがある。古くは長洲知事がこの話を引用していた、最近は小泉首相が使っているが、こんなもんじゃない。パンフを引用して、ちょっと紹介しておく。
「1 昭和初期の世相 昭和5年(1930年)、今から70年前のことです。その頃、日本の国は不景気で長野県の各地でも影響を受け、特に田舎の暮らしは苦しく、ここ泰阜村でも学校を休んだり、学校へ弁当を持ってこられない子供も出てきた。
昭和4年(1929年)10月、米国で始まった恐慌は、昭和5年(1930年)に入る頃から全世界へ広がった. 政府の金解禁により日本経済は混乱.生糸の対米輸出が後退し価格が暴落、重要な現金収入であった養蚕業に大きな打撃を与え、農民を窮乏させた。泰阜村でも養蚕の他に、米、木材、炭、等 五割減になった。
とうとう村では、先生方に給料さえも支払えなくなった。そこで、先生方の給料の1割を村に出して欲しいと、村から要望が出された。
その当時、県下各地で教員給与強制寄付が波及した。校舎の移転改築の為、多くの費用を負担し、更にこの不況でやむを得ず他の町村に倣って、教員給与の一部寄附を議決した。当時泰阜北学区の教育費負担は一戸当たり40円で県下最高クラスであった。
2 美術館建設の端緒
吉川宗一校長先生の願い「貧すれど貪せず」 時の校長吉川宗一先生(喬木村出身)は、「お金を出すのはやぶさかではないが、給料の一部寄附をもってしても、それは学校費補填のごく少部分に過ぎない。むしろそのお金をもって将来の教育振興に役立てるべきである」と考え、美術品購入のことを時の村長吉沢亀弥氏並びに村議会に建言した。 そのお金を貯めて、絵や彫刻、書などの美術作品を買い、「将来、村をしょって立つ 子供たちの夢や愛を豊かに膨らめてやることが大事だ」と考えた。「貧しいけれども、心は貪しない」と言う信念。美術品を集め、児童の情操教育を行うと同時に将来はこの地に美術館を建設したいという熱意をもっていた。
吉川校長は、「どんなに物がなく生活が苦しくても、心だけは清らかで温かく、豊かでありたい」と願っていたから。
3 教育を大事にする泰阜村吉沢村長と村民の決意 反対意見はあったものの、優れた歴代校長によって培われてきた教育尊重の気風から、泰阜村のほとんどの人達はこの考えに賛成し「学校に任せる」ということになりました。吉川校長の意見が取り入れられ、その事業については学校に一任された。(後略))
役場は小高い丘の上にあった。隣は体育館。ちょうど福祉バスが入ってきた。福祉バスは町民の足。無料で運行されている。窓口の職員がフリの客にもかかわらず本当に親切に対応してくれた。資料もいっぱいもらった。役場の構成はじつに簡素化されている。これで十分できるんだ。人件費を抑えるためにリストラした職員の雇用のために、公社職員として採用している。
学校のすぐ下に診療所、ディサービス、支援センターといった福祉施設が集合している。のぞいて先ず感じるのは施設が介護する側のためにではなく、介護される側にあって作られているという印象をうけることである。当然のことなのだが、それが形となって現れている。すぐ下に保育園、そして「やすらぎの家」がある。
「やすらぎの家」は自宅介護できない人々が、自宅と同じような感じで過ごせるようにつくられた施設である。12室、すべて個室、1部屋空いていた。泰阜村の基本理念は「人は誰でも老いて死ぬ」死ぬまで健康は幻想だ。そこで在宅介護で、自分の家で死を迎えるまでの介護の手伝いを行政がする。ここの村ではいち早く、こういう理念のもとに福祉が実践されてきたようだ。ここの行政は「住民のためにある」につきる。
泰阜村の公債費をみると、25%もある。本来なら財政破綻、財政硬直化といったところなのだが、道にしても施設にしてももハードなものが整っている。ということは借金はなんとか返していける、住民にとって必要なものは借金してもまず作ってしまおうという強い決意なのかもしれない。としたらなかなかのやり手だ。この村の特産物を買ってかえろうと農協へよった。
特産物といってもこんにゃくとてづくり豆腐ぐらい。あと農産物が少し。リンゴは来週にならないと出てこないという。そこでも買い物に来ていた村人と話をした。たのしげに話してくれる。「今度はそこの旅館に泊りに来ようかな」「それがいいよ」ほんと田舎の人は気持ちが温かい。こういう気持ちはウチもほしいものだ。
役場の職員が特産物として教えてくれたのに、「ゆべし」と「あまごの甘露煮」あった。そこでそれを探しに行く。地図をくれたが、簡単な地図はすぐちかくにあるようだが、これがひとつひとつなかなか離れているのだ。どうやら「ゆべし」の加工所は見つかった。でも人がいない。車が止まったのを見て、畑からご夫妻が畑から上がってきた。畑の向こうには雄大な山々が見える。いい景色だ。家に帰ってさっそく開けて食べた。ゆべしはとても美味しかった。そしてこの景色を思い出させた。
甘露煮を探しながら迂回路を走ると、酒屋があった。キクスイとは「菊水」の字を想像していたが「喜久水」だった。純米酒と吟醸酒と吟醸原酒を買った。「キクスイって楠正成の菊水を連想しましたが、こういう字だったのですね」というと、「以前は菊水を使っていたんですよ」と主は答えた。店の前は飯田線の温田(ぬくた)駅。車でなかったら、泰阜村にはどうやって行くんだろう。
◇にたような話
真鶴町岩に「建長寺の和尚さん」という昔話が伝わっている。神奈川の昔話にも入っている。
泰阜村の昔話にも似たようなのがあった。人間、同じような発想をするのか、おもしろいことだ。
「狸の描いた絵」
温田(ぬくた)、柿野に、不思議な絵像がある。人間の顔へ獣の胴体を着けたような格好で何とも合点の行かぬ代物であるが、それが狸の描いた絵だというのであるから大したものである。
久しい昔の話、遠州路の方から峠を越して不思議なお駕籠が一挺お伴を連れてこの村へ入って来た。いったいどこから来て、どこへ行くのやら、お駕籠の中には誰方が乗って御座るのやら、附き添いの御家来衆に尋ねても、ただ由緒ある都のお公家様だというだけで、その他については何も話してくれなんだ。
お駕籠の垂れは始終ぴったりと締め切ったままで、まことにもって判断に行かぬ、兎に角そういうお駕籠が一挺村の庄屋の所へ入って来た。
温田の庄屋の家では、第一に京都のお公家様というふれ込みに恐れ入り、この不思議な珍客様を歓待するのに上を下への大騒ぎであった。お駕籠のままで座敷の真中へ担ぎ込み、用事の時はこっちから呼ぶ故、それまではだれも決して参るな、と言う厳重なお達しだ。
家内一同は、ただただ高貴の御方とばかり崇め貴び、遥か末座に低頭平身して家門の誉れと恐悦至極であった。
駕籠の中から何が出て来たか、御風呂へ入る御公家様に尻っぽが有ったか、無かったか、家の者たちは何にも知らず、ただ家に余る光栄を畏れかしこみ、村中に触れを出して路傍の草を刈らせ、道路の掃除をさせて、明日のお立ちに粗そうのないよう、ひたすらに心を配っていた。
その夜も無事に明けて次の朝、お駕籠はやっぱり扉を固く締めたまま、座敷の中からずっと、家内一同が頭を下げている上へ、昨夜の御礼だといって不思議な絵像を一枚残した。温田で狩り集めた百姓たちのにわか作りの行列が、庄屋送りで田本を経て左京坂を登り柿野まで続いて行く道中に、村の者どもは地面にかしこまって伏し拝んだ。柿野で昼飯をとり同じような絵を一枚御礼に残した。お駕籠の扉は、終始締め切ったまま、不思議を人々の心に残して北の方を指して立ち去った。
食事の時も、風呂へ入る時も、一切、人を近寄らせなかったその隙をうかがって、不届者が一人、襖の陰からそっと覗いて見た所、御馳走を御膳の上へぶちあけて長いしたで舐めていた、湯に入る時には長い尻っぼが湯気の間からおぼろに見えていたとの話であった。そして北へ北へと行く、うちに、上穂の光前寺の飼犬に正体を看破られて噛み殺された、劫を経た古狸であったという。今に伝わっている不思議の絵像は、その時描いて残して行ったものである。
泰阜村立学校美術館に、「狸の描いた絵」とされる掛け軸が所蔵されている。
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