Images of 東方典礼カトリック教会
ガリラヤ湖ほとりにて・・ (´∀`*)【初代教会】について、前回はお話しましたが、【初代教会】は”ペンテコステ”(聖霊降臨)によって生まれ(実はその前から生まれていたが)【エルサレム教会】(主の12使徒達が中心、 リーダーは【使徒ペテロ】、使徒殉教後には ”イエス様の御兄弟で使徒の『ヤコブ』”さんが リーダーとなります。) 【主の兄弟ヤコブ】はユダヤの高名な歴史家「ヨセフス」の記事にも登場(主の兄弟ヤコブの殉教)する史的に存在が認められる人物と言えます。 【主の兄弟ヤコブ】は一説では【12使徒の一人・アルファイアの子ヤコブ】と同一視され、さらに【アルファイの子、タダイ【ユダ・タダイ】と兄弟であり、共に【主キリスト】の御家族だったという説があります。彼らは【イエス・キリスト】に風貌がとても似ていたという伝承があります。 BC48年頃まで、 【使徒ペテロ】の死後 【エルサレム教会】の初主教となり、リーダーとして活躍したらしい。 (父の名が違うので、異父兄という噂あり。マリヤはヨセフの死後、ユダヤの慣習で再婚した。 ”カソリック”では絶対に認めない説)他に多くの”ユダヤ人”改宗者、”サマリヤ人”などが居た。”元ユダヤ教徒”が多いので、 「律法重視な所が残っていた」 (初期には”ユダヤ教のナザレ派”と”ユダヤ教一派”と思われていた。) 【12使徒達】は”福音書”は書かず、 (自らは書かず、口述筆記などでは書いたが【マタイによる福音書・ヨハネによる福音書】古代では、口述筆記なども著作と認められた経緯あり) もっぱら口頭中心で”福音宣教”を行い、 ”小アジヤ”(現トルコ・シリヤ・ヨルダン)に沢山の【教会】を作ってゆき、【巡回伝道】していた。 トルコの【アンティオケヤ教会】(ローマ3大都市)に、【使徒パウロ】が回心して”使徒”となると【使徒パウロ】は”ギリシャ系住民や地方在住裕福なユダヤ人”を中心に、”ギリシャ地方”に宣教を拡大(3回の大宣教旅行)を行う。)し、【異邦人】(ユダヤ人以外)に宣教が拡大された。ユダヤ人が多い【エルサレム教会】と、”ギリシャ人・異邦人”が多い大都市【アンティオケヤ教会】という二つの主要なリーダー的存在な【教会】は、反目した訳ではないが、多少な対立関係があったとも言われる。”キリストの直弟子12使徒”が居る【エルサレム教会】は”本家本元”と自負していたし、【使徒パウロ】中心【アンティオケヤ教会】は、こちらも”正統派”と自負していた。(ローマの学がある大都市教会)【12使徒の行伝】は、【聖書・使徒行伝】以外に知る物が無い。”使徒ペテロ・ヨハネ・フィリポ”などは登場するが、彼らの宣教状態、末路などは一部以外殆ど解らない。(それは”使徒行伝”以外に記録した物が無く、”使徒行伝”も彼らの死後数十年後に書かれたので、殆ど記録出来てない・・からである)【エルサレム教会】は、AD68年の”ユダヤ戦争”で”ローマ軍”に”エルサレム”は破壊され、 ”ユダヤ人”は追放され、離散した為、その地位を、【アンティオケヤ教会】に譲る事になったのだろう。しかし、その後”キリスト教”があらゆる迫害と闘いながら、”ローマ帝国”を席巻した後、”コンスタンティヌス大帝”の時に、ミラノ勅令”により、公認され、【エルサレム教会】も再建され(その前かもしれませんが?)、後に5大主教座に帰り咲くも、”ローマ帝国の東西分裂”の時に、今度は国が別れ、それぞれの地域で発展して、別れて行く事になる。【西方教会・ローマ・カソリック】と 【東方正教会】にそれぞれが別れる。 【東方教会】は”カルケドン会議”の内容を承認せず、それぞれがお互いは【異端】と言い張って別れてしまう。ここで”カルケドン会議”の決定とは何であり(他に”ニカイヤ会議”など多数の会議があり) 【東方正教会】現”ギリシャ正教”の違いを考えて見る。【東方正教会】は、「ローマ教皇」の存在を認めず、【マリヤの処女懐胎】も認めなかったらしいです。 【東方正教会の特徴】 ★神秘的・形而上学的と言われる!(”ローマ・カソリック”は合理的・理性的なんだそうです。(^^;)プロテスタントから見ると、かなり”カソリック”でも神秘主義的なのだが・・?)★【東方正教会とは】http://barbarossa.red/eeastern-orthodox-church/ ★”旧約聖書”を”信仰の基として重要視する!(”ローマカソリック””プロテスタント”は 【新約聖書】に重きを置いている) ★”イコン”の存在! これは”オスマン・トルコ”支配からの、”ビザンチン文化”の影響だと思われるが、華麗な【聖画(イコン)】が”東方正教会”を埋め尽している。 ”イコン”は現在の”アイコン”の語源で、”肖像”という意味である。 、 (ロシヤで”ロシヤ正教会”で綺麗なポケット型の”イコン”をお土産に買いましたが”お守り”という感じでしょうか?)以下のVTRでも壁に”イコン”が飾れられている。 ★組織~【コンスタンチノープル】(現イスタンブール・トルコ)の主教が一番上で、【アレキアンドリヤ教会】(エジプト)、【アンティオケヤ教会】(トルコ)、 【エルサレム教会】がリーダーだが、 ”ローマ・カソリック”のような【ローマ法王】は居ない。★”修道院”制度あり! どうやら、この分裂は”ローマ帝国の東西分裂”に伴い、それぞれに”礼拝の仕方、主教の位置ズけ、礼典、儀礼”の違いが生まれ、そちらの違いが大きく、分裂したのかもしれませんね。”信仰内容”はそれほど相違が無いようです。 【ローマ・カソリック】が理性的、に対し 【東方正教会】は”神秘主義”であるらしいです。しかしここで【ローマ・カソリック】の 【修道院制度】が新たにこの”対立”に問題を投げかけます。 実は【修道院】とは【クムラン教団】が最も原始的な【修道院の初め】と言われるのです。実は 【ローマ・カソリック」】には【修道院】というものは、もともと無かったらしいのです。では、いつから【修道院】が生まれたのか?実はこの【修道院】は”東ローマ帝国の【東方教会】の制度でありました。 、【西方教会・ローマ・カソリック】は、実はこの流行ってきた【修道院】 (現世を捨てて神への修行をする) これを取り入れたのです。実は【修道院】は【東方教会】のものだったのです。驚きですね。皆さん、 【現世を離れ、世捨て人となり、神のみに仕える】= 【ユダヤ教エッセネ派=クムラン教団】 の教えなのです。 どうして、この【世捨ての修行】が【東方教会】に受け継がれてのか、 【ヨハネによる福音書】では、 【使徒ヨハネ、アンデレ】らが、実は”バプテスマのヨハネの弟子”であった事が書かれています。”バプテスマのヨハネ”は【エッセネ派】の噂が絶えない人ですが、世捨て人で、富、世間を捨て荒野で粗食!断食修行などを行う人でした。 【ヨハネ福音書】をあまりに後世に書かれている為、「???」と疑問視する”自由主義神学者”が居ますが、実は【ヨハネ福音書】が最も【キリストの救いの定義】をしてますデス! 【ヨハネ福音書】を疑ったら、すべての 【十字架の救い】がグラグラですよ~(笑) 【ヨハネ福音書】にだけ、何故【使徒ヨハネ・アンデレ】が”バプテスマのヨハネ”の弟子だと書かれたのか??・・それは本当だったとも思えませんか。 (ヨハネ福音書1:40 ヨハネから聞いて、 イエスに着いていった二人の弟子のうち一人は、 シモン・ペテロの兄弟「アンデレ」であった。) ”自由主義神学”では【 ヨハネの福音書】他”ヨハネ書簡”を 【ヨハネ共同体】なる思想集団(って何よ?誰が作ったのよ??)が制作したという説をマジボケで採用してますが 、その歴史的証拠は皆無です。 ”ブルトマンオヤジ”の説は、 実は自分達こそ 【史的証拠無し】な怪文書をタレ流すやからです。 ”自作・聖書・怪解釈本”で稼ぎたかった ”背教者オヤジ”だろう。 【使徒行伝】で【使徒ペテロ】は「悔い改めて、 バプテスマを受けよ」と宣教するのです。実は 【バプテスマ(洗礼)】は 【バプテスマのヨハネ、クムラン教団】で行われた儀式で、【イエス・キリスト】は”バプテスマ”を御自身で受けられたが、誰にも”バプテスマ”を授けていません。それは”洗礼者ヨハネ”の教えなのです。 ”キリストの使徒・弟子”と”イエス・キリスト自身”が”洗礼者ヨハネ”&”エッセネ派”と何となく関係が深いのですね。(イエス様と洗礼者ヨハネは親類、ヨハネから洗礼を受ける。使徒の数人がヨハネの元弟子)ここで【修道院制度】を誰が受け継いだのか?という疑問が生まれます。それは【東方教会】で始まった、【東方】~”エルサレム、トルコ”です。もちろん”バプテスマのヨハネ派”が生き残って、それを伝え、影響したとも考えられますが・? それらが、”自由主義”の言う【ヨハネ共同体】でしょうか?【修道院制度(クムランも原始修道院)】を伝えたのは【12使徒達】ではなかたたのか?・・と思えます。 少なくとも【使徒パウロ】にその要素が全くありません。(彼は地方在住の裕福なユダヤ人で、 エッセネ派との関係が皆無) そういう意味で 【使徒パウロ】は現”カソリック的”であります。(理性的、合理的)・・しかし”ローマ・カソリック”には”神秘主義”が生きています。これも【12使徒的】なんですね。こう考えると、 【ローマ・カソリック】の起源が、 【使徒パウロ派】だけでなく【12使徒】であり、”ローマ教会”を建てたのが【使徒ペテロ】であった事がにわかに有力に見えてきますね。 【12使徒】は【エッセネ派】の ”教え”を最初から持ちこんだいます。 【初代教会の原始共産体制】~”初代教会”ではすべての”信徒”に財産を提供させ、中央に集め必要に応じて”再分配”する 【原始共産主義】が行われ、 ”富む者”と”貧しい者”が存在せず、平等が維持された。 これが”キリスト教”が爆発的に、下層階級に広がった理由でもある。(貧しい者が飢えなくて良い世界)を作った訳で、これすら”画期的”である。 (使徒行伝2:43~47『信者となった者は皆いっしょにいて、いっさいの物を共有していた。そして資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて分配した。そして毎日、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びとまごころを持って食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。』) これはどう見ても、 【12使徒達】& 【イエス・キリスト】が 【クムラン・エッセネ派】と深い関わりがあったのを暗示している気がします。 【隠者のように暮らす・ 原始共産主義者(クムラン共同体に入るには全財産を捨てなければならなかった)・・ まさに 【修道院】なのです。 【エルサレム崩壊】後の ”12使徒達”の行方はどこにも書かれて居ないのですが、 【彼らの教え】が【修道院制度】として現代に生き残っているのかもしれません。 【エッセネ派】は最古に近い 【修道院】と言われています!【東方正教会】は自分達こそ、【12使徒の教え】を継ぐ正統派だと”カソリック”に対抗して言っているが、(両者は和解している)、【東方正教会】に、確かに 【12使徒達の原型の教え】の片鱗を見る事が出来る。それは【使徒パウロ派】(アンティオケヤ派)に無いもので、 【ユダヤ教的な”律法重視・ 旧約聖書重視・クムラン的神秘主義・クムラン的修道院制度・ クムラン的原始共産主義共同体】に見る事が出来るのでは無いだろうか? 【12使徒(キリストの直弟子)】の伝えた【原型の教え】はどのようなものであったか? それは【東方正教会】を見ると、見えてくる。 ”自由主義”連中が言う、 『キリストも12使徒も居なかった』という寝とぼけた説が、全く歴史を知らない”無知蒙昧な暴説である事が解る。 【12使徒達】はまぎれもなく存在し、【キリストの教え】を 伝え、【初代教会】を作ったのだ。 【東方正教会】は、15世紀の 【オスマン・トルコ】の侵攻で征服されたので、 多大な”ビザンチン文化”(トルコ風)の影響を受ける。 その後、中近東を離れ、実はロシヤに逃れ 【ロシヤ正教】となって栄えるのだ。(玉ねぎ頭の教会が”ロシヤ正教”・・トルコの影響が大である。) ”3大福音書”(マタイ・マルコ・ルカ)自体が 【アンティオケヤ教会派】によって書かれたとも言われ(「ルカ福音書」の著者医者のルカは 【使徒パウロ】の弟子、自由主義神学者が特に言っているがかくたる歴史証拠は乏しい)、 ここでは ”ユダヤ主義的・律法主義”は 「行いによる救いを説いている」とけん制されました。(そういう”異端派”ユダヤ人も多々いた。) 【12使徒達】は”福音書”は自らは書かなかったが、”口述筆記”などで”マタイ福音書””ヨハネ福音書・ヨハネの黙示録(使徒ヨハネからの口述筆記)・・正統派キリスト教はこちらの説をとる (リベラル派は他人が使徒のなりすまして書いたを採択する(笑)) しかし人としての 【イエス・キリスト】は 【ユダヤ人】・・ 【12使徒もユダヤ人】であり、 【キリスト】の言葉は正しく書かれており、 『この天地が滅びるまで、【律法】の一点一画すら滅びる事はありません。』 『愛は律法を全うする』 『私の言葉 を聞いて実行するものは救われる』・・など 【行い】を重視する言葉は多々あり、 『【聖書】は無条件で救われるから、何をやってもいい。』(リベラル派は何故か良く言う)というのは、 【聖書的な教え】ではなく、 【キリストの教え】も 【12使徒の教え】も継いではいないのではないでしょうか?
Mの彼氏のはフィリピンのマニラ出身で、家族はみんなカトリックなのだそうです。彼はそんなに信仰が深くないらしいけど(M談)、月1回だけ日曜の礼拝に出かけると言っていました。信者じゃなくとも見学、観光ができる教会です。人種、信仰に分け隔てなく、すべての人の教会をコンセプトに建てられたというので、連れて行ってもらうことにしました。
そこは2002年にオープンしたばかりの全米最大のカトリック教会でした。その名も天使のマリア大聖堂(The Cathedral of Our Lady of the Angels)。これの前身に当たる教会は十数年前のロサンゼルス大地震で崩壊し、教会内部では前の教会にあったいくつかの内装が展示されていました。とにかく本当に教会?っていうような外観で、地下の駐車場もものすごく大きかったです。亡くなったローマ法王もここを訪れたことがあるのだそうです。
さて、教会の中に入ると神父さんが立っており、来場者全員に声を掛けて握手をしていました。もちろん私たちにも。礼拝の行われる部屋はまるでコンサートホールってくらいに広かったです。礼拝者も200人くらいいたと思います。いろんな人種がいましたが、アジア系、ヒスパニック系が多かったです。いちばん偉い神父さんが出てくる前に司会進行らしき神父さんが出てきて挨拶、しかもマイクを持ってソロで歌い始めました。その人は黒人で、ものすごくいい声をしていました。歌手になったらいいのではってくらいうまいのです。
そしていちばん偉い神父さん登場。聖書を読み上げ、それからろうそくをともしたり聖水をまいたり、まるでショーでも見ているような儀式が始まりました。スモークも焚かれていたし。教会が大きいだけに儀式も派手です。そして参列者にパンと赤ワインがふるまわれる儀式。私とNさんは信者じゃないのでそれは遠慮しましたた。その儀式の間、パイプオルガンが演奏され、その上にいる聖歌隊と司会進行役の神父さんが歌っていたのだけど、鳥肌が立つくらい上手なのです。何でこの人たちが素人なんだろう…。
礼拝は滞りなく終わり、礼拝堂を自由に見学できまし。中央に十字架に掛けられたイエス・キリストの像があり、信仰深い人々はその下でお祈りをしていました。壁には宗教画が描かれていて、聖人の絵の中にはマザー・テレサも絵も。ほかの部屋も見学できるところがあるので、一通り見て歩きましたが、私たちのほかにも観光客はいたようです。もちろん、Mと彼氏は観光客じゃないのだけれど。
通路の壁は真っ白で、そこははめ込み式のお墓になっています。生きているうちに自分で好きな場所を選ぶことができるらしいです。なんと、グレゴリー・ペックのお墓もそこにはありました。通路のところどころには聖書の物語のいろいろな美しいステンドグラスが飾られていました。
Mはカトリック信者ではありません。どちらかというとカトリックはあまり好きじゃないと言っていました。しかし、ここの教会は神父さんたちもフレンドリーだし、気軽に来られるから好きだと言っていました。
私は礼拝中に聖歌隊の歌っていた美しい歌声が忘れられなかったし、ゴスペルにも興味があったのでアフリカン・ゴスペルのCDを買いました。ほかにも普通の聖歌隊、ロシアの聖歌隊などいろいろなCDがあって欲しかったけど、ぐっと我慢。Mにいろいろ説明をしてもらいながらやっと1枚選んびました。それがまたなかなか素敵なCDで、お聞かせできないのが残念!
信仰心のあまりない私も、聖なる気分になった素敵な日曜日の朝でした。
天使のマリア大聖堂 The Catedral of Our Lady of the Angels
www.olacathedral.org
挙式はロンドンの街中の小さな教会で⛪️ 元々希望していた教会が2箇所とも諸事情で使えないことがわかり、一度はやけっぱちになったのですが(笑)、 見学に行ったらこの祭壇が気に入って即決でした🕊 とても古い教会で、美しい祭壇はスペインから持ち込まれたものだそうです。 . 夫の衣装はクラシックな黒のフロックコートです😻とにかくシックでエレガントに🇬🇧💕 こちらは日本でレンタルしました。 . . 披露宴の装飾、装花、ペーパーアイテムなどのトータルイメージが湧かずもんもんとしています🤔 グリーンは会場のカラーに合うしたくさんにしたいけどあんまりナチュラル過ぎるテイストは元々好きじゃないし、かといってゴージャスなイメージは会場にも合わないし… 12月なのでクリスマスの雰囲気も織り込みたいけどカラフルなのもカントリーちっくなのも好きじゃない… 悩みます😂😂😂 . . #londonwedding #london #海外挙式 #ロンドン挙式 #frockcoat #フロックコートmoco1209wd Formal Dresses, Wedding Dresses, Mermaid Formal Dress, Fashion, Dresses For Formal, Bride Dresses, Moda, Bridal Gowns, Formal Gowns