Images of 松前之広
2021年12月20日(月)朝8時50分頃、月と砂漠ライン駐車場を出発。一周道路へ戻り、南に向かう。20分ほど走ると、大島を時計に例えると4時の方向の海岸沿いに筆島がある。見晴台があり、駐車場も整備されている。
海にポツンと火山が海に削られ残った奇岩で、その姿が筆の穂先に似ていることから筆島と呼ばれている。荒波に耐える姿から別名「神の宿る岩」とも云われる。
海中から高さ約30m程あり、後ろの断崖絶壁と併せてダイナミックな景観となっている。筆が空に向かって立っているように見えることから、書き初めのような気分で何か新しいことを始める時に訪れると良いとも云われる。
この岩は火道で固まった岩だと考えられている。伊豆大島誕生以前、この辺りには岡田港辺りの岡田火山と都立大島公園近くの行者の窟火山と筆島火山という3つの火山があった。筆島火山はもっとも古く、240万年前から数十万年前に活動していたと考えられている。その固まった岩が長い年月を掛けて太平洋の荒波に削られ、このような不思議な形になった。
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筆島に入る手前から大島町の元となった6村のひとつの旧波浮港村に入っている。1800年の波浮港開港と同時に差木地村から独立した村で、大島の4時から5時方向の太平洋に面する海岸線に沿った小さな部分。
筆島から一周道路をさらに南に進み、大島町を構成する旧波浮港村の中を抜けて行く。この辺りには陸上競技場や野球場が整備されている。10分足らず走ると波浮港見晴台に着く。
崖の下に波浮港が見えるが、この入江は元々は平安時代の838年のマグマ水蒸気爆発で出来た噴火口で、雨水が溜まり池となり波浮の池と呼ばれていた。波浮の名前の由来は分からなかったが、急な傾斜地で崖などが崩れて粘土や赤土が現れたところを「はぶ」と云い、波浮の他、土生や埴生、波布、羽生、八生などの漢字が当てられるそうで、ここもその条件にあってそう。
その後、江戸中期の1703年の元禄大地震・津波により、決壊して海と繋がる。そして、1800年になって、殖産興業家の秋廣平六によって港として整備され開港、松前船の風待ちの港として賑わった。その秋廣平六翁之像がこの見晴台に建てられている。
波浮港には明治から昭和にかけて多彩な文人、墨客、貴人が訪れ貴重な作品を残しているそうで、その中の一人の与謝野鉄幹は、1933年(昭和8年)の4月に妻の妻の晶子と娘、友人の4人で大島を訪れ、波浮港の松友館に宿泊した。鉄幹60歳、亡くなる2年前だった。この見晴台に歌碑が建つ。「山めぐり波浮の入江の青めるに 影しぬ船と片側の町」。
1950年代後半には皇族の方も来られたそうで、見晴台の一角には皇族方御来島波浮港御展望の碑が建つ。それに拠ると1956年に秩父高松両妃殿下、1959年に皇太子殿下(現上皇)、1960年に天皇皇后両陛下(昭和天皇・皇后)が来られたそうだ。
また、1964年にリリースされた都はるみの「アンコ椿は恋の花」の歌碑も。作詞は「男はつらいよ(渥美清)」や「函館の女(北島三郎)」、「昔の名前で出ています(小林旭)」、「三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)」なども書いた星野哲郎。
島の娘(アンコ)が北の都へ行ってしまった恋人を思ってすすり泣く惜別の歌だが、当時も波浮港には東京便は停泊してなかったので、あくまでも波浮港をイメージした歌詞。郵便は通常は東京から1晩で着くので、時化か何かで3日遅れたのだろうか?
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見晴台から南に進み、港に降りて行くが続く