Images of 染田賢作
常田健 土蔵のアトリエ美術館(休館)常田健1910年(明治43年)0歳 10月21日、青森県五郷村(現在の南津軽郡浪岡町)北中野に五男二女の長男として生まれる。 父・健三郎は浪岡小学校校長。母・みさほも教師で、画家・阿部合成の父の妹にあたる。阿部合成とは同い年のいとこにあたる。1928年(昭和 3年) 18歳 旧制弘前中学校を 卒業後、父の反対を押し切って上京。川端画学校に入学する。1930年(昭和 5年) 20歳 プロレタリア美術同盟研究所(長崎町プロレタリア美術研究所)で学ぶ。1933年(昭和 8年) 23歳 古里での軍事教練に反対した農業成年のストライキを聞き、青森へ帰郷。ストライキは鎮圧された後であったが、その関係者との交流があり、農民運動の関係者として検挙され、拘留を受ける。保釈後、青森市郊外の叔父の家に寄宿、この頃から阿部合成と交流を交流を深める。1934年(昭和 9年) 24歳 従兄弟で画家の阿部合成と絵画を研究、制作に励む。グレル家(不良のグレルの意味)というグループを結成、太宰治、谷崎潤 一郎、芥川龍之介、棟方志功らとも交流していた。フレスコに興味を持ち、その表現を 確立しようと合成と研究を重ねる。この当時青森市郊外の合成旧宅土蔵のコンクリート壁4面に合成と描いた作品は、現在青森県立郷土館に保存されている。 Kenchaloff da Grell(ケンチャロフ・ダ・グレル)健のペンネーム1938年(昭和13年)28歳 常田健の生き方に影響を与えた祖父が死去。1939年(昭和14年) 29歳 県立弘前高等女学校に在職していた今井純と結婚。第26回二科展「ひるね」「飲む男」出品。「ひるね」入選 1940年(昭和15年) 30歳 第27回二科展「睡れる水引人」出品・入選。「ひるね」製作(現在、青森市浪岡「中世の館」に収蔵) 1941年(昭和16年) 31歳 第28回二科展「はじまり」出品・入選。 1943年昭和18年) 33歳 第30回二科展「田の草取り」出品・入選。1945年(昭和20年) 35歳 終戦によって除隊。戦時中も絵具の配給などを受けながら製作を続けていた。1950年(昭和25年) 40歳 青森美術会の創立に参加。1951年(昭和26年) 41歳 浪岡町出身の小説家、平井信作の新聞小説「生柿吾三郎の来歴」(東奥日報社)の挿し絵を担当。1955年(昭和30年) 45歳 日本美術会会員となる。青森平和美術展(青森美術会主催)日本アンデパンダン展に出品(以降毎年出品)1966年(昭和41年) 56歳 青森で個展開催。1967年(昭和42年) 57歳 東京・紀伊國屋画廊にて個展開催。1968年(昭和43年) 58歳 弘前で個展開催。1984年(昭和59年) 74歳 青森美術会により『常田健画集』刊行1991年(平成 3年) 81歳 第12回青森県文芸協会賞受賞。1992年(平成 4年) 82歳 浪岡町中世の館ホールで個展を開催。妻・純 死去。1997年(平成 9年) 87歳 第39回青森県文化賞受賞。1999年(平成11年) 89歳 「常田健-津軽に生きる八十八年」展を東京・ギャラリー悠玄にて開催。同時に画集『常田健』(角川春樹事務所)刊行。2000年(平成12年) 90歳 「TOHOKU/TOKYOU1925-1945」展を板橋区立美術館(東京都 2月26日〜3月26日)で開催。 宮城県美術館(宮城県 4月8日〜5月14日)で開催。 4月26日急性心筋梗塞のため逝去。 「農民を描き続ける沈黙の画家 常田健展」全国巡回展を大阪なんば高島屋グランドホール( 4/27〜5/9)・京都府高島屋京都店(5/11〜6/16)で開催。 岡山県高島屋岡山店(8/10〜8/22)開催。 第48回「青森平和美術展」(8/17〜8/20)に作品2点を出品する。 「常田健」展(9/1〜9/10)を長野平林堂書店上田原店(長野県)で開催。 「農民画家・常田健追悼展」(9/15〜9/24)浪岡町現代美術空間(現在の青森市浪岡)で開催。 「大地の画家−常田健展」(9/22〜10/22)青森県立郷土館(青森市)で開催。[共催・東奥日報社]2001年(平成13年) 「常田健展」を千葉そごう美術館(千葉県 3/24〜4/22)・新津市美術館(新潟県 6/15〜9/2)・酒田市美術館(山形県 11/2〜12/2)にて開催。2002年(平成14年) 「大地の画家・常田健未公開デッサン展」・「画友展・尾崎ふさ個展」(4/16〜5/15)をギャラリー悠玄(東京)で開催。2004年(平成16年) 「大地の絵筆・常田健個展」(10/16〜10/24)を「大地の感謝祭」にて開催。2010年(平成22年) 生誕100年を迎える。青森県立郷土館において生誕100年特別展「常田健展」を開催。