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あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
2014年7月に訪れた沖縄戦跡国定公園の”"黎明之塔"に端を発した戦争史跡巡りですが、今回は沖縄県豊見城市にある旧海軍司令部壕へとやってきました。
こちらは第二次世界大戦末期の1944年8月に海軍巌(いわお)部隊(基地航空隊)・山根部隊(設営隊)の沖縄進出によって海軍司令部壕としての建設が始まります。同年8月9日沖縄方面根拠地司令部(第四海上護衛隊司令部)が奄美大島より小禄航空基地(現在の那覇空港)に移動、翌1945年1月20日大田實少将が第四海上護衛隊司令官兼沖縄方面根拠地司令官として着任します。
この第四海上護衛隊とは、1944年4月10日佐世保・鹿児島~沖縄間航路の船団護衛を担当する目的で、海上護衛総司令部隷下の部隊として編成されたものであり、第四海上護衛隊司令官が沖縄方面根拠地隊司令官を兼ねるというものでした。また根拠地隊とは、海軍における広義の陸戦隊のことであり、海軍基地を防衛・管理するための部隊となっています。
開隊時には大本営(東京)は、既に沖縄が戦場になることを想定しており、その沖縄への物資の供給と住民の本土疎開を推進する役目を担うことになっていました。しかし大田司令官着任後僅か1ヵ月後の2月25日、沖縄方面根拠地隊は防備に専念するべく兼任を解かれます。
同年4月1日沖縄島中部北谷と読谷の海岸に米軍が上陸し、読谷と嘉手納の両飛行場を制圧しますが、この際沖縄守備軍は水際作戦を避け持久戦を取ったため、結果無血上陸となります。
5月下旬沖縄守備軍司令部が首里から南部摩文仁へと撤退する際に"沖縄守備軍の撤退を支援せよ"と"海軍司令部も摩文仁へ撤退せよ"との命令を勘違いし、残すと米軍の武器になる残存重火器を破壊し撤退を始めますが、その後命令の勘違いがわかった5月28日、すぐさま小禄へと引き返します。
米軍が5月31日首里を制圧した後、改めて6月2日に沖縄守備軍司令官牛島満中将より大田司令官に摩文仁への撤退命令が出ますが、そのときどのような背景があったのかは今となっては知る由もありませんが命令に従いませんでした。
そして6月4日の早朝には米軍第六海兵師団が小禄に上陸し敗色が深まるなか牛島司令官は度々"撤退せよ"と命令を出していますが大田司令官は動かず、翌日6月5日には決別の意を打電しています。この電文に愕然とした牛島司令官は" 武運尽きて玉砕するときは陸軍も海軍も一緒である"と打電し撤退をさせようとします。
翌6月6日米軍が小禄飛行場を制圧した際に海軍次官であった多田武雄中将宛の決別の打電"「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」"の電文を打った後、6月11日朝からの小禄地区(現在の旧海軍司令部壕周辺)への戦車も導入した米軍の総攻撃に武器もなく経験もない残存兵力を総動員して迎え撃ちますが結果は日の目を見るよりも明らかで3日間の戦闘で沖縄根拠地隊はほぼ全滅し、投降した日本軍兵士も約160名という結果に終わります。その戦闘最中の6月13日未明、この司令部壕司令官室で大田司令官は幕僚6名と共に自決をされます。
6月11日に沖縄守備軍長参謀長宛に"ゲリラ戦要員として相当数の将兵を残す"との旨打電します。当時根拠地隊の兵力は約10,000人とされていますが、正規の軍人は約3,000名程で、その上陸海軍中央協定に基づく「南西諸島作戦二関スル現地協定」のため沖縄根拠地隊は事実上は沖縄守備軍傘下であり2,500名が根拠地隊から陸戦要員として抽出されていました。残る将兵(おおよそ5,000人程度と言われています)も多くは現地召集兵であり実戦訓練もほとんどないままの陸戦隊員だったようです。その将兵を遊撃戦と後方撹乱戦(ゲリラ戦)闘員と称し七四高地(海軍司令部壕のこと)を取り囲むように配置します。この時既に大田司令官以下沖縄根拠地隊には武器もなく戦う術もない状態でのこの作戦の目的は?となりますがこれが後述する大田司令官の思惑があったように思えてなりません。
このあたりの文献は様々な解釈で書かれているものが多く確かなものではありませんが、小禄陥落後、現地召集された武器を持たない初老の陸戦隊員がどこからともなく摩文仁に集まってきます。そして彼らが抱えてきたものが食料等おおよそ戦争にはかけ離れたものであったことから、小禄の陥落=根拠地隊としての玉砕ではなく、沖縄守備軍への物資の輸送兼兵力の移動を望んだのではないかと思います。しかし時代の流れは止まりません。大田司令官の自決の後6月23日(6月22日説もあり)、沖縄守備軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将の自決により、沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わります。
そして1945年7月26日、連合国によるポツダム宣言の発表の後8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、8月14日深夜御前会議でポツダム宣言受諾が決定されることとなり、ここで第二次世界大戦は終結します。1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送により国民に知らされ、日本は無条件降伏し終戦を迎えることになります。
これより大田實司令官の打電文を時系列に則して紹介します。
1945年6月5日牛島中将への打電文
「軍主力の喜屋武(きゃん)半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、武人の最期をまっとうせんとする考えである。ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る。」
これは沖縄守備軍司令部の摩文仁への撤退確認後に決別の意を込めての打電と思われますが、日本軍の戦局の悪化はともかく、沖縄根拠地隊の置かれている状態の認識がずれていたようにも思えます。この電文に愕然とした牛島司令官は、引き止めようと打電しますが大田司令官は従いませんでした。
そして1945年6月6日に大田實少将が大本営海軍次官多田武雄中将の下に打電した電文(正確にはこうであろうという解釈が入っているもの)になります。
沖縄県民の実情に関しては
県知事より報告せられるべきも県には既に通信力なく
本職 県知事より依頼を受けたるに非ざれど
現状を看過するに忍びず 之に代って緊急御通知申上ぐ
県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ
残る老幼女子のみが相次ぐ砲爆撃に 家屋と家財の全部を焼却せられ
僅かに身を以て軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難
若き婦人は率先 軍に身を捧げ 看護婦烹炊婦はもとより
砲弾運び 挺身切込み隊を申出るものあり
ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ
一木一草焦土と化せん
糧食六月一杯を支えるのみなりと謂う
以下現代文への訳(旧海軍司令部壕資料館掲示のもの)です。
昭和20年6月6日20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、
県にはすでに通信する力はなく、
32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、
私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、
現状をそのまま見過ごすことができないので、
代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始まって以来、
陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、
県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。
しかし、私の知っている範囲では、
県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、
子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、
わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で
小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、
雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、
炊飯婦はもとより、防弾運びや
切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。
敵がやってくれば、老人や子供は殺され、
女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、
親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、
衛生兵がすでに出発してしまい、
身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。
このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。
さらに、軍において作戦の大きな変更があって、
遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、
夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、
県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、
ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、
ついに(不明)報われることもなく、
この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。
一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、
食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
この電文は広く知られているものですが、戦時中の混乱期のものゆえ"全て事実"と断言はできません。しかしこの文章から読み取れるものとして、当時の決別の打電の常套句である「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすら沖縄県民の敢闘を称えるものとなっています。この電文内容に時の井上成美海軍大将が甚く感動し終戦運動を加速させたという逸話が残っているそうです。
1945年6月11日打電文
32軍長勇参謀長への打電
「敵後方撹乱、又は遊撃戦を遂行するため相当数の将兵を残置す。右将来の為、一言申し残す次第なり」
32軍司令官牛島満中将への打電文
「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日2330(6月11日23時30分)玉砕す。従前の御厚誼(ごこうぎ)を厚く謝し、貴軍の健闘を祈る」
この二つの電文に一つの仮説を立ててみます。牛島司令官と長参謀長、立場が違うだけに内容も違うといえばそれまでですが、牛島司令官は穏健派に対し長参謀長は強硬派と言われています。時系列のズレはあれど、大田司令官は長参謀長には"兵を残す理由"を、牛島司令官には"我ら海軍勢は健闘虚しく玉砕した。後を宜しく"との意味を込めているとすれば、最初に打電した長参謀長への電文は牛島司令官も当然目を通しているはずであり、もし気性の荒い長参謀長が、海軍陸戦隊の残存兵が摩文仁にたどり着いた際、自陣(小禄)を見捨てた(ととられる可能性がある)陸戦隊員の扱いは想像しえるものだったように思います。そこに牛島司令官が「なぜ彼らがここへ来たか、大田の電文を読んだだろう・・・」と割って入ってくれることを願っていたのではないでしょうか。上官から"擁護する理由"、即ち大田司令官から長参謀長への電文を示すことで牛島司令官・長参謀長両者とも折れることなく将兵達を受け容れてくれることを先読みしていたように思います。戦争の最終的な結果はさておき、現地召集の兵を含め沖縄県民の健闘を讃えるべく大本営に打電した「沖縄県民斯く戦えり」の内容を踏まえると、この仮説が強ち間違いではないように思えます。
「戦えるものは戦え、されど諸事情で戦えなくなった時に自決など選ばす行きよ!」という大田司令官の思惑を仮説通り信じたい気持ちはあります。
内容は被るところはありますが、大田司令官が最後の戦いとした七四高地(司令部壕付近)決戦の際、将兵の前で訓示した言葉「死地に活路を求めて、命ある限り生きよ」という言葉、先述しましたが「陣地は落ちても自決などせず、戦えれば戦い、無駄死になどせず生き続けよ」。戦時中であり死ぬことが当たり前で生き延びることが恥とされていた時代においてこの命の大切さを説いた一文、確かに戦時中の混乱期ゆえ事実かどうか確かな根拠がないといった意見も少なくない中で、あまりにも辻褄があっている複数の電文故、信じたい気持ちが募るばかりです。
1945年6月12日打電文
佐世保特別陸戦隊受信
その①
発 沖根 昭和20年6月12日 1335
一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む
その②
発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ
※沖根とは、沖縄根拠地隊の略
この2通の電文は、沖縄根拠地隊より佐世保特別陸戦隊に打電されたものです。なぜ佐世保特別陸戦隊なのか・・・、このことを明確にしている文献は見当たりませんでしたが、元々大田司令官は第四海上護衛隊兼沖縄根拠地隊司令官として赴任していることから、打電時には兼任を解かれていたとはいえ、やはり気心知れたところとして佐世保、それも根拠地隊イコール海軍陸戦隊として選ばれたのではと考えます。やろうと思えば大本営に送ることは可能だったとは思えるので・・・。
1945年6月12日13:35の玉砕の連絡、16:19のこれにて終了。そして翌6月13日未明、6人の幕僚と共に拳銃にて自決。大田實少将享年54歳、死後特別昇進し中将に昇進されます。
1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送をもって日本はポツダム宣言の受諾、無条件降伏をすることになります。現実には6月23日に沖縄における組織的戦闘は終わっているため、8月15日には既に沖縄は米軍の占領下に置かれていました。
その海軍司令部壕に米軍兵に伴われて大田司令官の戦死を確認すべく8月27~28日、佐世保海軍軍需部沖縄支所所属で、地元沖蝿出身の海軍上等兵曹宮城嗣吉氏をはじめとした3名が壕の中へと足を踏み入れます。地下30mの奥細い場所にある司令官室に入ると、室内には大田司令官を一番右にして旧幕僚の7遺体が整然と並んでいたそうです。拳銃を用いた痕跡があったということですが、ならば整然と並んでいたことは死後誰かの手によるものだということは想像がつきます。しかし司令官の戦死確認が済めば米軍としてはそれ以上のことは必要無く、また戦後の混乱もありそのまま数年の間放置されることになります。
混乱も一段落した昭和27(1952)年3月4日、司令官の戦死確認に立ちあった宮城嗣吉氏ら3名は、かねてより忘れることのなかった終戦時に壕に入った際に目にした大田司令官他6人の幕僚、そして迷路のような壕に玉砕時の姿そのままで黒々と折り重なるように横たわっていた1,000柱以上もあろう将兵の遺骨を一刻も早く遺族の元へ送るために約7年振りに壕へと足を踏み入れます。この地がいかに地の利を生かして作られたものかを証明することにもなりますが、吹きさらしの風雨の中、壕入口も壁も崩れ落ち、埋もれるに任されているという荒れ放題の状態。特に地下へと延びる壕内は、土砂と水で半ば埋まったままの状態だったそうです。司令官室も例にもれず土砂だらけで、整然と並んでいた筈の大田司令官以下幕僚の遺骨すら見当らなかったそうです。
宮城氏らはとにかく崩れた土砂を掘り起こして、やっとバラバラになった遺骨を見つけます。そして洗骨した後、持参した白木の箱に入れられた大田司令官以下7幕僚の遺骨は、奇しくもアメリカのノースウェスト機にて3月7日羽田空港にて故国日本の土を踏むことになります。
また宮城氏らには、沖縄戦海軍最後の地小禄陣地の丘の上に慰霊塔を建て、壕内に残る戦友の遺骨を収めたいとの願いがありました。それを戦友達に呼び掛けて浄財を集め、その結果出来たものが旧海軍司令部壕周辺の海軍壕公園内にある海軍戦歿者慰霊塔になります。
当時個人や住人の手で細々と行われていた遺骨収集でしたが、この司令部壕の発掘や大田司令官の遺骨発見の報道を境に日本政府事業として民間から公共事業として移行されて行くことになります。
大君の 御はたのもとに死してこそ 人と生まれし 甲斐ぞありけれ
【大意】
大君(天皇陛下)のために死んで行くことこそ、人に生まれた甲斐があるものだ。
大田司令官の辞世の句ですが、これはやはり当時の軍国主義のたわもののように思います。ただこの辞世の句はともかく、実在(と仮定した)の電文等の内容から読み取れる人柄というのは、やはり物事には動じない沈着冷静な一面の他、博愛心に富んでおられた方だったように推測します、と言うよりそう思いたいというのが本心です。
ひとつ最近の逸話として、沖縄に反自衛隊の嵐が吹き荒れているさなか、先遣隊として地連所長として赴任した落合 畯(たおさ)一等海尉の逸話があります。地連と言うと自衛官の募集などの仕事が主ですが、この時期当然バッシングされて当たり前でした。それが誰かともなく言った落合氏が大田司令官の遺児だということ。勿論事実なのですが、この話が出たのを境に抗議や妨害がなくなったそうです。この話が大田司令官のことを沖縄では悪く言う人はいないとされる根拠になっているそうですが、やはりこういう話には逆説論がつきまとうもので、余計に酷くなったという説もあります。
ちなみに今後この話題を検証し、肯定できるのか否定するのかはその時になってみないとわかりません。
毎年6月23日は、20余万の死者を出した沖縄戦の終結をと恒久平和を祈念し、沖縄県並びに沖縄県議会主催で糸満市摩文仁の平和祈念公園にて慰霊祭が執り行われています。この話は毎年新聞にも大きく取り上げられているので知る人も多いと思いますが、その数日前の6月13日には、この旧海軍司令部壕にて慰霊祭が行われています。こちらの主催は、一般財団法人沖縄コンベンションビューローとなっていますが、概略を見る限りは観光協会的なもののように思います。そのつながりはわかりかねますが規模的な違いを感じます。確かに片や沖縄県の休日に対し、一般の慰霊祭としての扱い・・・。特に沖縄県では6月23日には他の場所でも多くの慰霊祭が行われています。ターゲットとなる戦没者の方々の違いもあるとは思いますが、どちらも戦跡近くの場所にて行われる慰霊祭、知名度で判断されてしまうのは少し残念だと思います。
今回訪れた旧海軍司令部壕ですが、来館者そのものは年々増えています。しかし修学旅行をはじめとする平和教育のコースとしてはなぜか外されてしまうことが多いそうです。
先の大戦では沖縄戦において、軍属の他大多数の地元の方が亡くなっています。それを慰霊し、そして恒久平和を願うシンボルは、沖縄平和祈念公園なのかもしれません。しかし犠牲となった戦没者の方々の多くは名も無き遺骨として合祀されていると聞きました。
実は私の母方の祖父は沖縄戦で戦死しております。母は生前「じいちゃんのお墓には石が入っているだけ」と言っていました。勿論直血の孫とはいえ母方の実家なので確認することもできません。また過去に知ろうとも思わなかったのも事実です。今になって・・・と思われるかも知れませんが、わからないから知りたいと思っているのは事実です。わからないなりに図書館で本を読み、様々な書き方をされているHP等にも目を通しました。そうした過程を踏んだ上での推測ですが、沖縄戦において戦死された大多数の方は、身元がわからない遺骨として合祀されているとすれば、やはりお墓の中には祖父と同じように石が入っていることが多いのか・・・、と思います。そのことから、自決された場所も特定され、遺骨収集までもが叶った大田司令官に対する妬み感も否定はできません。また立場的に戦争を指導したとされる軍司令官の立場は、時が過ぎても"許せない"という考えがあることは否定できません。
しかし今年2015年は戦後70年という節目の年でもあります。戦後70年ということは終戦時に生まれた方が70歳になられることに他なりませんが、残念ながら人間は永久に生きることはできません。戦争を経験され、"語り部"としてその悲劇を説いて下さっている方々も、必然的に高齢化が進んでしまう事実があります。勿論後世にその戦争を語り継ぐために"戦後世代の方々"が語り部を引き継ぐ奇特な方もいらっしゃいます。しかし・・・上手く言うことができないのですが、広島で語り部の方に修学旅行の中学生が吐いた暴言、ゲーム感覚とも思える人の命の取扱いなど、「なぜダメなのか?」「ダメだからダメ!」という答えになっていない無限連鎖の遣り取りにはそろそろ限界ではないか?と思います。そのひとつに今回紹介した海軍指令壕慰霊祭の扱いに対する疑問を上げました。
"罪を憎んで人を憎まず"、ベタな言い方ですが、まさしくこの言葉を実践する時ではないでしょうか。もうひとつこれは全ての方に考えて欲しいことなのですが、戦跡=心霊スポットという捕らえ方が少なからずされていることです。多分戦跡のアウトライン検索を掛けるくらいではそうそう引っかかりませんが、ひとつ踏み込んで検索すると、少なくない数の写真や動画に行き着きます。これをどう取るのか・・・、解釈に困りました。ただそのように捕らえていると、当然その場所の神聖さという想いはなく、結果ゴミも捨てるし落書きもする・・・そうなるのも目に見えています。勿論しかるべきところが管理することによって防ぐことができることもありますが、心ここにあらず、「ダメだからダメ」の押し付けにしかならないように思います。当然それらの解釈には過程論がないので「なにがダメ」なのかはわからず、結果人目を盗んで・・・、後は想像にお任せします。
私はこの戦争史跡の管理には、沖縄の方々の御嶽(ウタキ)信仰、即ち自然崇拝の考えが理に叶っているように思います。御嶽のように特定の祭神を置かずに水源など、自然に基づくものを崇める、これが即ち自然の賜物であるガマは正しくその場所であり、また戦時中多くの方々が亡くなられた事実を永久に守らなくてはならない聖なる場所でもある、そう思うのです。
私の語彙力の無さから上手く伝わっていないことが多いことをいつも危惧しながら書いておりますが、思想や意見の違いを背景に検証しあうこともせずただ漠然と責め合うことで合意を得ることは永久にできないと思います。多くのHPを見させて頂きましたが、お一人で全てのことを完結へと導かれていないことからもその想いは募るばかりです。この世の中に"部外者"は誰一人としておりません。過去を見据えて未来を考える、それが今回の旧海軍司令部壕を訪れて感じて思ったことのまとめにしたいと思います。
昭和20年6月23日、あの熾烈を極めた沖縄戦は、血腥い死闘の繰り返しの中で、20余万にも上る敵味方の尊い血を流した果てに終結しました。それからはや70年、いかにその教訓を生かして人間は生きているのだろうか・・・。
これにて"あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~"は終わります。
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※未完成
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