Images of 森川直
兵庫県赤穂市にある赤穂城は忠臣蔵で有名である。浅野長直が5万3000石で入封して、慶安元年(1648年)から13年をかけて赤穂城を築き、寛文元年(1661年)に完成した。浅野家は安芸広島藩の分家で長直・長友・長矩と続き、元禄14年(1701年)に浅野長矩(浅野内匠頭(あさのたくみのかみ))は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央に刃傷に及び、即日切腹させられ、播州浅野家は断絶となった。元禄15年(1703年)12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入る。いわゆる「忠臣蔵」の討ち入りである。
赤穂城址は史跡に指定されており、昭和30年(1955年)には三の丸に大手門北隅櫓が復元され、その後も復元作業が行われている。新築されたばかりの大石神社(大石内蔵助と赤穂義士を祀る)や大石良雄(内蔵助)宅跡には長屋門と大石邸庭園があり、主君浅野家の名残は微塵もない。浅野氏断絶の後は永井直敬、続いて宝永3年(1706年)に森長直が2万石で入城し、森家は、12代に渡って居城し、明治を迎えるが、森家の痕跡も感じられない。
明治元年(1868年)に東京城に入場した明冶天皇がお忍びで泉岳寺を訪れ、討ち入りした赤穂浪士47士を忠臣と称える。これ以降は公に忠臣と認められ、赤穂城址に大石神社が創建されることになる。明治33年(1900年)、正式に大石神社が創建された。ちなみに、大石神社と泉岳寺とは交流はないそうだ。おかしな話だ。大石神社には義士史料館があり、泉岳寺には赤穂義士記念館が建ち, 大石内蔵助良雄銅像(大正10年(1921年)12月14日に除幕)も建っている。幕府に気遣いながらもお墓を護り供養してきた泉岳寺に対し、公式に大石神社として祀る際に挨拶があってしかるべきであろうし、100年以上も両者間に交流がないのは理解に苦しむ。
赤穂といえば塩である。大通りの商店街のお店で「やき塩」を買った。「赤穂の塩」「元祖」「天然海水塩」「創業350年」とある。今では日本各地の海岸の町では天然海水塩を製塩して販売しているが、赤穂では350g入りの小袋詰めであった。値段も180円と手頃なのでお土産に買い込んだ。結局は重荷になるほどだった。
(表紙写真は復元された大手門隅櫓)