Images of 武家政権
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鎌倉に武家政権を樹立したのは源頼朝である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年(1185年)は改元されて文治元年(1185年)となる。これ以降が鎌倉時代とされ、鎌倉時代の始まりは頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)から朝廷に日本全国への守護・地頭の設置を認めさせた文治元年(1185年)に遡った。教科書で教える鎌倉時代が文治元年(1185年)から始まるのであるから、建久3年(1192年)はいずれ消え行く運命にある。
では、当の頼朝像(http://4travel.jp/travelogue/10881307)はどうか?京都・神護寺の伝源頼朝像が足利直義(足利尊氏の弟)の像との説が有力になってはいるが、自刻像とされる鎌倉・補陀洛寺の源頼朝坐像は知られていない。最近は甲斐善光寺の源頼朝坐像が有名になっている。しかし、研究が端緒についたかどうかの段階であり、源頼朝像があぶり出されるまでにはまだまだ時間が掛かることであろう。
一方、武家政権の存続に大きく寄与した頼朝の御台所・北条政子像はどうであろうか?どうやら、鎌倉・安養院の北条政子像が一般的に知られており、生前にその姿を生き写したと伝わる横浜・乗蓮寺(http://4travel.jp/travelogue/10877023)の北条政子像(http://www.amashogun.co.jp/about.html)は全くのところ知られてはいない。日本史上では倭国女王卑弥呼(2〜3世紀中)と並んで、最も名の知られた女性・北条政子であるにも関わらずにである。また、卑弥呼の名前が不明なのは仕方がないことではあろうが、政子の晩年までの名前さえも不詳となっているのは納得のいかないことでもある。これも、横浜・乗蓮寺には「朝日御前」と伝わっている。
少なくても、北条政子像が横浜・乗蓮寺に伝わる像のお顔であるとすれば、鎌倉時代前期の歴史がもっととっつき易くなることは確かであろうか。
(表紙写真は横浜・乗蓮寺の北条政子像)