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北条義時法華堂跡については、
「二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。」(文化財等データベース)とある。
しかし、広大な平地に
「鎌倉市教育委員会は平成十七年に発掘調査を実施し、一辺約二八尺(八・四八メートル)の方三間堂で、幅約四尺(一・二一メートル)の縁が巡る法華堂跡を検出した。四周(南側は消失)には雨落ち溝が巡り、軒の規模で一辺四一尺(一二・四メートル)と推定される。鎌倉時代前期から後期の瓦が出土しており、瓦葺きと推定され、高麗青磁梅瓶、青白磁水注破片等の高級貿易磁器も出土している。近世以降の耕作等による削平を受けており、埋葬施設等は検出されなかった。義時法華堂跡境内の範囲は東西約八〇メートル、南北約一一〇メートルである。」
とあるが、トレンチも入れないで、「義時法華堂跡境内の範囲は東西約八〇メートル、南北約一一〇メートルである。」と断言は出来ないはずだ。
あるいは2堂並んで建っていて、その1つを発掘調査で掘り当てたのかも知れない。
こうした鎌倉市のやり方は永福寺に関しても同様で、『吾妻鑑』になかったことでは、三堂のうちの二階堂は「釈迦堂」だったと推察されること以外は何も調べられてはいない。そうであるからこそ、鎌倉は国内では唯一、世界遺産の落選地となっているのだが…。
「安永八年(一七七九)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し、頼朝墓を整備した。」とあるが、江戸時代に入ると島津藩主は源頼朝ご落胤説を唱えるようになる。
ご落胤ならば、父・頼朝墓に近い場所に墓所を設営するであろう。しかし、頼朝墓から忠久墓までの参道を整備しておきながら(、ただし、2010年以降は夏場に雨が多くなり、草茫々で通れなくなってしまった)、頼朝墓に近い2つの横穴墓を再利用しなかったのは何故なのか?
その場所を空けておいたので、「文政六年(一八二三)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。」(ただし、毛利氏初代季光墓はここ大倉山ではなく、鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷(志一稲荷の近く)に造営された。)ことばかりか、大正10年(1921年)には毛利季光の墓も移設することが可能となった。
では、何故、この場所が島津忠久墓、大江広元墓に選ばれたのか?
それは岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」(吉川弘文館 田中彰『幕末維新の社会と思想』所収1999年11月)に「大江広元墓所のところに「土人の口碑に伝ふるのみ」」と記述されている。八幡宮15坊の相承院に寺伝があったようだ。しかし、島津忠久墓所については安永7年(1778年)以降の記述しか見当たらず、相承院の寺伝があったような記述があるにはある。
何とも頼りない限りである。
では、主君の源頼朝墓よりも高い位置に島津忠久墓、大江広元墓を設けた理由は?北条義時の法華堂のように、源頼朝法華堂のある位置よりも低くすべきであった。
(表紙写真は北条義時法華堂跡)
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