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党活動指針 1950年6月6日 日本共産党中央委員会宣伝教育部 12ページ建て p6 〝来るべき革命における日本共産党の基本的な任務について〟の批判を出版するにあたって(中)徳田球一 草案にたいする意見(つづき)志賀義雄 人民民主主義
1931年にスペイン王政が倒れてから、スペイン政界は左右両陣営の対立から、昏迷を極めます。
1936年には、総選挙で左翼系の人民戦線政府が、成立します。
人民戦線もブルジョワ議会制民主主義を志向する穏健派と、共産主義あるいは無政府主義革命を志向する強硬派が存在しました。
共産主義者たちは、ソ連のチェーカー(秘密警察)の影響を受け、右翼人物を暗殺で
排除します。これに反発をした右派が、急速に台頭します。
これに対抗するために左派勢力も、革命を叫びはじめました。
このような状況のなかでフランコ将軍はモロッコで、人民戦線政府に対して、反乱を起こします。
スペインの共産主義者たちは、無神論を唱え、教会への焼き討ち、神父の殺害を繰り返し、尼僧への凌辱行為までしました。
このことはフランコ陣営を利することになります。フランコ将軍は、反乱軍を率いて、イベリア半島上陸にあたり「自らを、祖国と神にささげる」と宣言していました。
信心深いスペインの若者たちは、恋人に別れを告げ、フランコ陣営に加わり、大勢が帰らぬ人となります。残された乙女たちは尼僧になっていきます。
スペインの反乱軍や植民地のモロッコ兵を、ドイツの空軍、海軍がイベリア半島に運びました。
ドイツは義勇軍の形をとっていた、コンドル軍団をスペインに送り込んだのです。
スペイン南部では、コンドル軍団将兵は、共産主義の魔手から、スペインを救うために、命がけでやってきたとされ、住民たちからは、大歓迎を受けました。カトリック教会もコンドル軍団に,宿舎として修道院をあてがうなど、援助を惜しみませんでした。
ところで、スペイン北部のバスク地方は、保守的な地域で人民戦線政府と、相容れない部分がありました。
しかし高度な自治を約束した、人民戦線政府側につきます。フランコ陣営は、統一スペインを目指していたからです。
フランコの反乱軍は、バスク地方にも迫ってきます。
ゲルニカの町の手前には、ムンダカ川が流れていました。人民戦線の兵士たちは、この川にかかるレンテリア橋という石橋を渡って、ゲルニカに入るものと、見られていました。
レッド・バロンとうたわれた第一次世界大戦の空の英雄であるマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵の従弟である、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン中佐が、
ドイツ・コンドル軍団の参謀長として、作戦を指揮していました。
ゲルニカの悲劇は、彼抜きには語れません。
1937年4月26日、リヒトホーフェン中佐は、作戦司令室に入ってきて、このレンテリア橋を主目標とした、橋に向かう交通路の破壊を命令したのです。
橋の少し西には、ゲルニカの町がありました。
それゆえこの橋のみの破壊であれば、新式のユンカースJu87 シュトゥーカ急降下爆撃機を使えば、ゲルニカの住民に被害を与えず、一発で破壊が可能でした。
しかしリヒトホーフェンは、旧式のユンカースJu 52爆撃機の使用を決めます。
しかも石橋に対して、高高度から焼夷弾投下を命じたのです。
これに対してひとりのドイツ将校は、「ゲルニカには木製の橋が多いようだな」と皮肉を込めて言ったようです。
なぜなら焼夷弾は、高高度から投下すると、木の葉が舞うように落下するからです。
最初に爆弾を投下したのは、コンドル軍団きっての操縦士と爆撃手を乗せたハインケル He 111爆撃機でしたが、橋をそれ駅前広場に落下したのです。
このあとユンカースJu52爆撃機が、レンテリア橋をめがけて焼夷弾を投下しますが、最後までこの橋は、無傷でした。
このゲルニカ爆撃で無辜の市民が大勢犠牲になりました。このことは国際的な反響を呼び、
ピカソは義憤にかられて、「ゲリニカ」の絵を完成させます。
ゲルニカの破壊は、フランコ陣営は、人民戦線による自作自演だと、必死の嘘をついてきました。
またフランコを支持する人たちは、ピカソ作のゲルニカを、狂人の絵と呼んでいました。