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牛久保城(うしくぼじょう、愛知県豊川市牛久保町)はJR飯田線牛久保駅の北側踏切を渡った公園内に「牛久保城趾」と刻された石柱と説明板があるだけで土塁・堀とかの遺跡等は全て失われ完全に市街化されています。
そもそも牧野氏は四国讃岐から移り住んだ一族と言われ牧野荘の地に単郭式城を造り地名から田口氏を牧野氏に改姓、有力豪族一色氏の被官となります。
応仁の乱末期の下剋上では一色刑部少輔時家(いっしき・ぎょうぶしょうゆう・ときいえ)が殺害され一色氏没落、続いて一色氏を倒した被官の波多野氏に一時的に臣従した牧野成時(まきの・しげとき、生誕不詳~1506)は波多野時政(はだの・ときまさ)の一色城を攻め勝利し同城を拠点とします。
永正2年(1505)成時の主家にあたる駿河の今川氏親(いまがわ・うじちか)の命によって西三河の松平氏の抑えとして今橋城(後の吉田城)を造り成時は初代城主として一色城(牛窪城)から移ります。
空席となった一色(牛窪)城主には成時の息子に当たる成勝(しげかつ、生没不詳)で、享禄2年(1529)に一色城(牛窪城)の近くに新しく築城して牛久保城と名付けて一色城(牛窪城)から居城を移し本拠となし、他方城主を失った一色城(牛窪城)は新城である牛久保城の一部として機能していたと思われます。
牛久保城には成勝を初代として以降貞成(さだしげ)・成定(なりさだ)・康成(やすなり)と四代に亘り続きますが、成定支配の永禄4年(1561)に今川義元討死を機に自立した徳川家康の攻撃を受け、これ以降牛久保城は吉田城と共に義元を継いだ氏真の反撃拠点となりますが、家康の猛攻撃収まらず永禄9年(1566)5月、成定は遂に降伏、牛久保城開城し家康に追従します。
天正18年(1590)小田原北条氏没落後関東入部の家康に従って康成が当牛久保城を離れた後は、豊臣秀吉の支配地となり池田輝政(いけだ・てるまさ)が吉田城に入封、その際牛久保城は支藩となり輝政重臣が城代を勤めることになります。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後は牛久保一帯は幕府直轄領(天領)となり代官が支配、牛久保城は代官所として使用されるも元禄13年(1700)に廃城となります。
僅かに残された城跡入口に施された「牛久保城跡」説明板では次の通り記されています。
「牛久保城跡
この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529)一色城主牧野茂勝が、今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。
扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。
城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。
城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。
のちに、牛久保は天領となり元禄13年(1700)廃城になりました。
いまは、昔の面影なく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名が僅かに昔を偲ばせています。」
豊川市教育委員会