Images of 稲葉正成
東京メトロ丸ノ内線本郷三丁目より徒歩5分、春日通を西進しますと右手に天澤山・麟祥院(りんしょういん、東京都文京区湯島)山門が窺え、この寺院には第3代将軍家光を実現させた春日局(かすがのつぼね、1579~1643)の廟所があります。
寛永元年(1624)春日局の願いによって2代将軍秀忠が建立させた寺で、初めは報恩山天沢寺と言ってましたが、寛永11年、三代将軍家光の命により麟祥院と改称して天澤山と号することになります。
春日局の名はお福といい、明智光秀の重臣斎藤利光(さいとう・としみつ、1534~1582)の娘で稲葉正成(いなば・まさなり、1571~1628)に嫁ぎますが後に離婚し、慶長9年(1604)家光の乳母となります。
お福は家光の将軍就任に並々ならぬ尽力をして江戸城大奥での影響力を行使し、ついに家康をして家光が嗣子であると言わしめるに至ります。
寛永20年9月享年65歳で没し遺体は鱗祥院に葬られます。
尚、お福が春日局と呼ばれたのは寛永6年(1629)、後水尾天皇や中宮和子に拝謁した際従三位の位階と春日局という名を天皇から賜ったことによります。
2022年10月24日追記
当該寺院のホームページには下記の通り紹介されています。
『 臨済宗 妙心寺派 天澤山 麟祥院
当山は寛永元年(1624)春日局の願により三代将軍家光公の台名で、当地に境内地一万坪寺領三百石の御朱印状を拝領し徳川秀忠の御明御殿を賜り、殿堂を造営し、報恩山天澤寺と号しておりました。
はじめ、局の甥にあたる神龍和尚が住職しましたが、病気のため退院し、寛永七年野州宇都宮の興禅寺の?川和尚の高徳であるのを局が聞き、当山の住職として拝請され開山となりました。その節、春日局の菩提寺として、寛永11年(1634)家光公より武州豊島郡柏木村(現新宿北新宿)の内に寺領百石を香華料として寄進され、後に豊島郡駒込村(現文京区本駒込)の内に二百石ご寄進され合わせて三百石の寺領となりました。局は麟祥院殿仁淵了義尼大師の法号をもって寺号とするように命じた為「天澤山麟祥院」と改号しました。』
『 開基:春日局
幼名は福。父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)三代将軍家光公の乳母として召し出され3千石を賜りました。
家光公が将軍に就くために献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽力致しました。
寛永5年家光公25歳の折、「ほうそう」にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照宮大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒しましたら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祈りました。その忠誠心に関応してか、日ならずして家光公の病気が回復しました。
そのため局は身の終わるまで鍼灸薬餌を一切用いませんでした。
寛永6年京都へ上り御所に参内し、春日局の号を賜り、御水尾天皇より天盃を賜りました。同9年再び台に依り上洛し、明正天皇より従二位を賜りました。寛永20年(1643)9月14日65歳で卒し、当院墓地に永眠しております。
下の画像(略)は、局が朝廷より従二位緋袴を賜った折の寿像で、局の還暦を祝して家光公が特に狩野探幽に命じて描かせたものです。』
『 春日局墓石について
春日局の墓石の四方および台石には、それぞれ穴が?ってあります。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言に衆議して建立したものです。
春日局の強運と賢徳に、又墓石に穴が通っていることから、「肖る」とか「願いが通る」と江戸時代より港間に伝えられてひそかに参詣する人が多くありました。
当院は寺域の周囲を「カラタチ」の生垣を廻らしていたことから、「からたち寺」と言われて来ましたが、明治20年頃より施工された度々の道路拡張などにより、カラタチの生垣はなくなりました。』
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