Images of 網地島ライン
Hawaiiは乗継のみ。乗り継いで行く先は、キリバス国のクリスマス島。クリスマス島には飛行機が週一便しか就航していないので、最短でも7日間滞在することになる。
*キリバスの3諸島
キリバス国の「本土」ギルバート諸島についてはキリバス編ご参照。キリバスにはギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島の3つがあるが、人口の大半はギルバート諸島に集中している。クリスマス島はライン諸島のメインの島。世界最大の環礁であり、この島ひとつの面積がキリバス国全体の面積の約50%を占める。フェニックス諸島は、長距離飛行が技術的に困難だった一昔前は太平洋路線の飛行機が燃料補給のため頻繁に離着陸していたらしいが、今では公務員とその家族がわずかに暮らしているのみ。
*クリスマスの地名
ロンドン、パリ、ポーランド、これらを飛行機を使わずして一日で周遊する方法があります。それは南太平洋クリスマス島に行くこと。クリスマス島の地名にはとても変わったものが多く、そのルーツを調べるのが楽しい。聞く人によって答えが違うことがあったが、ガイドブックとs氏(高校教諭)の話を総合するとこんな感じ:一番初めに島の端にパリという名前をつけたのは、フランス人。彼は、もともと南太平洋のどこかの島で宣教師をしていたが、現地女性を娶ってよいかなどをめぐりフィジーのビショップと不仲になり、事実上破門に追い込まれた。元宣教師はフランスに帰国する代わりに、当時無人に近かったクリスマス島で椰子のプランテーションを始め、母国をしのんでパリと呼ぶようになった。南太平洋のパリはいったいどんな感じだろうと興味津々でたずねると、単なる無人のビーチで、「パリ」を感じさせるものはどこにもなかった。地元の人がたまにピクニックに来るらしく、ゴミが散らばっているだけ。
現在プランテーションがあるところは「ポーランド」と呼ばれている。これは、そのフランス人の甥がポーランド人だったとか、労働者の一人がポーランドから来ていたことに由来するという。コプラが島の重要な産業だったころ、ポーランドは人口も多く、栄えていたようだが、コプラ価格が低迷している今は活気のない集落になっていた。「昔の光今いずこ」的なこの集落で、唯一開いていたキオスクには皮肉な看板がついていた。[Forever and Ever](ずっとずっと永遠に)・・・
環礁の一部に切れ目があって、外海と接している。これをドーバー海峡と見立てたのだろうか、後にクリスマス島を手中に収めたイギリスは、パリの対岸をロンドンと名づけた。ヨーロッパ人は世界各国の植民地に故郷の町の名前を冠しているが、ヨーロッパの大都市とはイメージが180度異なるような南太平洋の離島にまで「パリ」だの「ロンドン」と名付ける・・・これがヨーロッパのセンスオブヒューモアということだろうか。
他にも、現在一番人口の多い集落の名前( )がキリバス人の信仰する海の神様(西洋社会のポセイドン)の名前だったり、
環礁は土地がやせていてバナナの栽培には適していないのにバナナ村という地名があったりして興味深い。
なお、キリバス語の語音は非常に少ないのでLやDはなく、近い音で代用している。例えば、Christmasクリスマスは現地語表記でkiritimatiキリスィマスイ、LondonロンドンもRontonロントンとなります。
*ふたつのクリスマス島
今回行ったのは太平洋のキリバス国領のクリスマス島(現地語読みではキリスィマスィ島)。赤蟹の大移動でおなじみのインド洋の豪領クリスマス島と紛らわしいが、まったく別。国際郵便でも時々混乱があるようで、空港であったオーストラリア人と思われる女性が嘆いていた。「ここクリスマスで受け取るはずの荷物(某国際宅急便)が豪領クリスマス島に運ばれてしまって、転送の手続きをしてもらってるところなの」。逆パターンもあるようで、前年に豪領クリスマス島に行ったときガイドさんがこう言っていた。「(豪領クリスマスにいる)赤蟹を見に行こうとして、間違えてキリバスのクリスマス島に行ってしまったお客さんがいるんですよ」。どちらもお勧めの島なので、間違って行ってしまっても楽しめると思うが。
*世界最大の環礁
クリスマス島は世界最大の環礁Atoll。ミルキーグリーンの海、この海の美しさは、私の記憶の中で最も美しかったニューカレドニアの海を越えてしまったかもしれない。特に、地元の人が「ミツビシがホテルを立てる予定だった」といっていたパリとポーランド村の間の海の色には心が揺さぶられた。こんなビーチで見られるのは地元の漁師だけで観光客は皆無だった。
*喉袋パンパンのグンカンドリ
クリスマス島で1950年代から60年代に行われたイギリスの核実験の光は2500kmはなれたタラワでも見えたという。かつては鳥のパラダイスだったこの島では、実験の直後には鳥が大量に死んだ。これは核の毒性によるものではなく、核爆発の眩しさで目がやられて、飛行や捕食が自由にできなくなったためだと一応分析されている(英米政府の見解)。けれど、実験から約50年たった今、クリスマス島は再び鳥のパラダイスになっていた。グンカンドリはガラパゴスをはじめ世界各地で見たが、図鑑で見られるような真っ赤な風船(喉袋)をパンパンに膨らませたグンカンドリは見たことがなかった。それがここでは、当たり前のように目の前を飛んでいた。
他の鳥の種類と数の多さにも圧倒された。天敵がほとんどいないので、警戒する必要がないのか、巣を作らずに枝や地面にじかに卵を産んでいる鳥もたくさんいた。
*カニに食べられてしまった老人
*企業家になったフランス人元牧師
*JASDAの衛星追跡基地の跡は
*衛星通信で株取引、さすらいのヨットマン
*台湾vs中国 in Xmas
中国人は世界中どこにでもいる。人口3000人のクリスマス島も例外ではない。世界各地の華人・華僑の圧倒的多数は、広東・福建・潮州・客家・海南のいずれかの「幇(パン)」に属しているという。ここクリスマス島では、広東系が強いようで、各商店にはフィジー製のものに混じって広東製の食べ物・飲料がたくさんおいてあった。毎日でも中華料理が食べたい私は早速中国人の店を探した。中国人は商品の流通を握るだけでなくたいていレストランを拠点(隠れ蓑?)にしているからだ。
中にいた広東顔の人は英語を上手に話した。きくと、フィジー出身だという。観光客もほとんどいない(アメリカ人釣り客はいるが、彼らは食事込みのパッケージで来るので外食はしない)し、地元の人はこういうレストランには来ない。とするとこんなところに店を出しても、それだけで十分な売り上げを期待することはできない。案の定、昼時だというのに客は私だけ。けれど、実際には貿易でもうけているのでレストランに客が来なくても困らないのだ。とても「本業」でもうけているとは思えない中国人がアフリカの地方都市にまでいるというこの不思議な現象のからくりは、西アフリカのブルキナファソ第一回訪問時の香港人露天薬剤師に聞いたものだ(→ブルキナの頁*移動する中国人貿易商「西アフリカ支店」)。
広東系フィジー人が台所に引っ込んだあと、メニューを見ながらxxxxと衝撃的な事実が浮かび上がってきた。この広東人の奥さんはなんとxxxxの実の娘だというのだ。これは非常にスキャンダラスだ。なぜなら、キリバスは台湾を承認する数少ない国のひとつで、台湾からは巨額の援助を受けているからだ。島のパトカーや学校にも「Love From Taiwan」のロゴが入ったパトカーやトラックがたくさんあったのを見た。これだけ台湾に頼っている国のxxxの娘が台湾の宿敵中国系と結婚(政略結婚)しているとしたら大事ではないか。(略)
*世界一早い朝日
「ミレニアム・ポストカードあります」もう2007年、2001年から6年もたつというのに、ロンドン村には、21世紀で一番早い日の出を見るためにやってきた観光客を当て込んで用意したと思われる看板がいつまでもかかっている。クリスマス島のあるライン諸島はハワイとほぼ同緯度。1995年までは、ハワイ同様の時間帯に属していた(GMT-10)。首都のあるギルバート諸島は日付変更線の西側(GMT+12)なのに、クリスマスのあるライン諸島は日付変更線の東側(GMT-10)だったわけだ。これが不便ということで ミレニアムを前に日付変更線をぐぐぐぐっと東に迂回させライン諸島を日付変更線の西側にもって来た結果、ハワイ(GMT-10)とクリスマス(GMT+14)は時差がないにもかかわらず日付が一日違うということになった(+14--10=24)。GMT+14と言う地域はほかにないのでライン諸島は世界で一番早く朝を迎える地域と言われることになった。ところで、「世界一早い日の出」チャンピオンには物言いがついている。先日訪問したNZのチャタム島でも世界一はやい日の出を主張したのだ。これは地軸が傾いているため、緯度の高い地域では夏場の日が長くなることと関係している。この現象を突き詰めていくと、そもそも南極は夏の間(とくに年末年始)南極は白夜なのだから夜中の1200にはもう日が上っている、とすると世界一早い日の出を見られるのはチャタムもクリスマスもなく、南極だと思うのだがそうは考えないのだろうか。キリバス名誉領事館で出版しているガイドブックによれば、イギリスのグリニッジ天文台がキリバスのミレニアム島が世界一早いと認定したらしい。おかげでこのあたりでは「世界一早く日の出を望む図書館」とか「世界一」という枕詞が濫用されている。
なおサモアのサバイ島は日付変更線のすぐ東、GMT-12なので、世界最後の沈む夕日を見ることができる(冬場で、極点に近い地域のほうが日が沈むのはもっと遅いはずだが、一応そういわれている)。
*タラワークリスマスの便
クリスマス島は、首都のあるギルバート諸島タラワとは2500kmも離れている。船はクリスマスまで行くものがあったが3ヶ月にいっぺん程度しかなく、急ぎのキリバス人や時間のない旅行者が利用するには難しいものだった。
では空の便はどうか。2003年に首都のあるタラワに行ったときにクリスマスにいく飛行機を探したが、この区間を結ぶ空の便は当の昔に廃止になっていてクリスマスにはたどり着けなかった。当時飛行機でタラワからクリスマスに行くのには
1 Tarawa-Suva(ナウル航空)週2便
2 Suva−Nandi (Air Pacificなど)
3 Nandi-Honolulu (Air Pacificなど)
4 Honolulu-Christmas( )週1便
と、3回の乗り継ぎ、しかも外国を2回も経由しなければならないのだった。クリスマス島は非常に隔離された島だったのだ。キリバス人にとって大変なのは飛行機運賃や乗換えの手間暇だけではなかった。クリスマス島民が首都に向かうには、アメリカのビザがさらに必要だからだ。アメリカという国は、乗り継ぎ客をも無理やり審査して入国させる。単なる乗り継ぎなのに入国ビザを取っていく必要があるのだ。けれどアメリカのビザはキリバス人にはなかなか下りない。まずキリバスにはアメリカの大使館領事館がないのでフィジーのSuvaに行かなければならない。大使館に行けば当然ビザが発給されるわけではなく、銀行の残高証明書や身元保証人を要求されたり、発給までの間フィジーでずっと待たされたりするのだ。これではギルバート諸島にいる親の死に目にも間に合わない。
つい最近FJがFijiのNandiからクリスマスに直行便を飛ばすようになった。そしてFJはNandiからTarawaにも直行便を飛ばすようになっていた。(ナウル航空はどうなったのだろう?)これにより、クリスマス島民はNandiでの乗り換え一回でタラワにいけるようになりアクセスが大幅に改善された。なんでもFJのキリバス線は、キリバス政府のチャーターで、その資金は外国政府からの援助らしい。クリスマス島がハワイだけでなくFijiと結ばれたことで、アメリカ方面だけでなくオーストラリアニュージーランド方面からの観光客の来訪を期待できるようになったそうだが、私が搭乗した飛行機は若干の米人釣り客を除いてがらがらだった。
*Tの弟を探して
電話局からギルバート諸島タラワのTに電話をした。Tとであったのは2004年。タラワに到着した私はそこからクリスマス島に行こうと飛行機を探していた。実際にはそのクリスマス行きの飛行機便がとっくの昔に就航を中止しているので見つかるはずもなかった。どうしたものかと考えあぐねていたそのときちょうど前にで切符を買っていた人がT。「この飛行機はどこへ行くの?」とたずねたところ、T「マイアナだよ。」、(km)「それはどんな島なの?」...ちょうど里帰りするという彼が島に連れて行ってくれることになったのだった。3年半の時がたち、ようやく私はクリスマス島にたどり着くことができた。クリスマスに行くなら弟を紹介すると言っていたTと3年半ぶりに電話で話す。あの時撮った写真は帰国後すぐに送ったのに、彼のところには届いていないということ。キリバスの通信事情とはこんなものか。「弟は(クリスマス島の)バナナ村にいるんだ。尋ねてみてよ。」Tの弟Jは、20年前にギルバート諸島を捨て、この島にやってきた。以来ギルバートに里帰りをすることはなくコプラ採取にいそしんでいるという。根っからの開拓者だ。誰もが誰もを知っているクリスマス島でのこと。Tの弟は簡単に見つかるはずだった。ところが、弟探しは意外な展開を迎える・・・・
*クリスマスに見るマネアバ(集会場)
キリバス国のギルバート諸島はとても伝統的な社会だった。教会のマネアバとは別に、村ごとにマネアバ(集会場)があって、大事な事柄や紛争は長老たちがそこで議論・解決していた。離島の小さな村でもマネアバはとても立派で厳かに佇んでおり、その存在感は圧倒的だった。建物も草葺の伝統的なもので、きっとその葺き替え作業なんかを村人と共有・分担していくことで親睦や絆が深まっていることが想像できた。ところがクリスマス島は、主に英米の核実験後に新たな土地を求めてギルバート諸島からやってきた移民で成り立つ新しい社会。そういう意味でアメリカの西部みたいな開拓者精神の感じられるところかも。いや、実際には政府が主導で移民を進めたという点ではむしろ屯田兵に近いかもしれない。島で話した人も元公務員でこの島に赴任して、そのままこの島に居ついたという人が多かった。クリスマス島はギルバート諸島各地出身者の寄せ集め社会だといえる。こういう寄せ集めの社会でどういう現象が起きたかというと、村のマネアバがない。それぞれギルバート諸島の違う島々から来ているので、従来の社会や伝統を意識的に声高にしないようにしているのかも知れない。「xx島出身者」の派閥などで新しい社会が分裂してしまうことを恐れて自主規制しているのか、それとも政府が規制しているのかどちらかではないだろうか。
個人レベルでは、この島で生まれた子供たちを除いては、個々人がギルバート諸島の「xx島」の出身、という意識を強く持っていて、クリスマス島への帰属意識というものが希薄なように思われました。「中央から派遣された公務員の多い官庁街」のロンドン村はもちろん、初期の入植者が築いたというxx村(名称失念)I(村が大きくなる後とに拡張していったのでxx村IIもある)でも事情は一緒でした。きっとアメリカ移民1世や北海道開拓移民1世も遠い故郷のアイデンティティを心に秘めたまま生涯を送ったのだろう。
村のマネアバの代わりにあるのは教会が立てたマネアバ。人口比に対して教会の数はかなり多かった。各宗派立派なマネアバを建てて宗教行事のみならず地域行事に積極的に使える共用スペースにしていた。金属やコンクリートでできている集会場もあり、ギルバート諸島の伝統的なマネアバ建築に感銘を受けていた私としてはちょっと寂しい感じがした。
* ポリネシアの12のミステリーアイランドのひとつ
・・・とガイドブックに出ていますが、どうしてミステリーなのでしょう。ポリネシア人が最初に渡来していながら定住しなかったから?そういう理由なら太平洋には他にも同じような島がたくさんあるはず。それにクリスマス以外の他の11のミステリーアイランドはどこなのかも気になる・・・。ガイドブック出すからには読者が当然抱くような疑問をあらかじめフォローしておいてくれたらいいのに。この点なにかご存知の方ご連絡ください。
*陰鬱なホノルル
日本から毎日10便を超える直行便があるハワイ。日本のハネムーナーや家族連れでいっぱいのワイキキビーチ。私にとってハワイのイメージは「日本語が通じる日本人のためのリゾート」だった。しかし今回日本からではなく、世界一周チケットでアメリカ本土から飛んできた私には日本を感じさせるものがどこにも見当らないように感じた。飛行機の中は白人とハワイ人、もしかしたら日系人という感じの人はいたけれど、日本人らしき人はいなかった。国内線ターミナル到着口の観光案内所の人は中国系で日本語を話せなかったし、日本語の観光パンフレットはまったくなかったのです。英語で書かれたパンフレットは、必ず日本軍が攻撃した史実を取り上げており、日本人の私が見るには忍びないものだった。半世紀前までアメリカ白人の多くにとって日本と日本人は「宣戦布告せずに、真珠湾を攻撃した卑怯、卑劣、残忍な敵」、そういう存在だった。イラク戦争開始時のサダムフセインとイラク人に対してアメリカ人の相当数が抱いていたイメージ(偏見)と同じだ。白人の老人たちの中にはそんな卑怯で残忍な日本のイメージを払拭できないままの人がいても不思議はない。英語パンフレットは表向きには中立に作られているけれど、そういった白人観光客の視点にも応えるように組まれているように感じた。
空港を離れてホノルルに入れば日本人はたくさん目にしたが、むしろ驚いたのは白人の多さだった。そして彼らの中の相当数は、短期観光客ではなくロングステイ、または老後をここで過ごすための「(国内)移民」のようだった。私が泊まったYMCAは、日本人パッケージ旅行の人が泊まるような高級ホテルとはまったく趣をことにしていた。一階のカフェテリアは、長期滞在者・地元労働者御用達のベトナム系だった。朝からフォー(ベトナムうどん)を安く食べられます。ベトナム戦争時の南ベトナムから避難してきたベトナム人のコミュニティはハワイでも結構大きいようだ。YMCAには独り身の白人の老人が何人もいた。何人かに共通していたのは表情が沈んでいて、エレベータでであっても挨拶はもちろんにこりともしないこと。マクドナルドでコーヒーを飲みながら渋い顔で新聞を読んでいる一人の老人は、V(Veteran=退役軍人)のキャップを誇らしげにテーブルの上においていた。それはまるで「美しいハワイを攻撃した卑怯な日本軍を駆逐し、ここを守ったのは俺たちだぞ」と周囲に誇示するかのようだった。もしかしたらこのご老人は毎日マックで新聞を読むのが単に日課なのかもしれないけれど、老人は本当は誰か話し相手が欲しいのかもしれないと思った。
ホノルルには、夕暮れ時のビーチでウクレレ弾きながら歌うポリネシア人なんていなくて、意固地で孤独そして陰鬱な白人が集まってきてしまうところなのかもしれない。それは訪問前に私が持っていた、豊かなアメリカのまぶしいリゾート地ハワイというイメージとはまったく合致しないものだった。
独り身の白人たちがハワイにステイしているわけは離婚かもしれないし、死別かもしれない。理由は様々だろうが、他のポリネシア圏では見ることのなかった意外な光景を目にした気がしました。南太平洋、アジア、アフリカ、中近東、一般には貧しいといわれる国々や地域で見た多くの老人たちは、家族やコミュニティの中で尊敬され、ふるさとで生きていることに誇りを持っていた。私はそういう輝いているおじいちゃんおばあちゃんの笑顔を写真に撮るのが好きだ。けれどホノルルはそういうおじいちゃんおばあちゃんの写真を撮るにはあまり適したとちではないのかもしれない。アジアやアフリカの老人はたとえ貧しくても死に行くときに寂しくはないだろう。木陰やカフェでは必ず回りにだれか話し相手やバックギャモンの相手がいた。後進国に老人ホームがないのは、貧しいから施設を作る余裕がないというより、家族やコミュニティが機能しているから施設を作る必要がないということもいえると思う。もちろんハワイだって、ホノルルだけじゃないし、原住のポリネシア系の社会はきっとそうではない。私が見たのはハワイのごく一部であることはわかっているが、今回はハワイの意外な裏の表情を見てしまったようで、考えさせられた。