Images of 長倉顕太
足利市街に迫り出してくる標高約250mの両崖山の山頂に主郭を置き、主郭から3方向の尾根に広がる典型的な山城、足利城(栃木県足利市本城ー別名:両崖山城)を訪問しました。
説明では藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、生没不詳)7世の孫である成行(しげゆき、生没不詳)が足利太夫として、天喜2年(1054)に両崖山に築城し、以降5代120年に亘り使用されますが、藤原足利氏は平氏滅亡と共に没落し、当城は廃城となります。
鎌倉時代には源姓足利氏は平地に居館を構えたため足利城は荒れ放題の状況でしたが、室町時代中期には足利長尾氏の3代景長(かげなが、1469~1528)は足利城を修築して居城とします。
天正18年(1590)小田原北条氏の支配下となっていた長尾顕長(ながお・あきなが、1556~1621)は豊臣秀吉の小田原城攻めに対して、小田原城に籠城、結果北条氏の開門・降伏と共に足利城も再び廃城の憂き目にあいます。
2022年5月10日追記
現地説明板では当該山の名称から「両崖山城」の題字で下記のように記載されています。
「 両 崖 山 城
・前期古城
平安時代、天喜2年(1054)藤原秀郷の子孫伊勢崎渕名城主藤原成行が足利に入部、両崖山に築城したと伝えられます。以来、130年間足利地方を治めました。丁度その頃、奥州に乱が起こり、天喜4年、源頼義、義家親子が平定に出発しました。源氏の軍勢は、足利浅間山の南麓を中継基地としました。これがもととなり源姓足利氏が発生したのです。
藤原成行の足利進出は、この源氏の面倒を見るためだったとも考えられるかも知れません。
治承4年(1180)源平合戦が始まると、源姓足利氏の棟梁義兼は挙兵、頼朝の側近として活躍しました。義兼は頼朝と同じ八幡太郎義家4代の後裔で、母方の従兄弟でした。
両崖山の藤姓足利氏は立場上、時の政権の平氏に従っていました。源平合戦の時、両崖山城主藤原俊綱に嫡男、足利又太郎忠綱は京警護のため、平家の軍勢の中におりました。源三位源頼政の軍勢と平家の軍勢が宇治川で合戦となりました。この時、足利忠綱は17歳でしたが、藤原足利氏を率いて宇治川を渡る一番乗りの功名を立てました。この様子は「平家物語」に橋合戦として詳しく書かれて、世に広く知らせています。両崖山の藤姓足利氏は、中立を守ろうとしましたが許されず、治承5年9月、三浦義茂率いる源氏の軍勢が渡良瀬川まで押し寄せてきました。総攻撃の前日、城主藤原俊網(60歳)の首が源氏の本陣に届けられ、攻撃は中止されました。「吾妻鏡」には、家来の桐生六郎に誅殺されたと書かれています。しかし、城主俊網が自分の首一つで戦いを回避したとも考えられます。藤姓足利氏は消滅し、足利地方は源姓足利氏に統一され治められました。
・後期古城
戦国時代、足利は古河の公方軍と上野の上杉軍の戦場となりました。
文正元年(1466)上杉方の武将、長尾景人が代官として足利に入部、岩井山に観農城を築きました。足利長尾三代政長が両崖山城に移り、再建しました。
両崖山で戦いが行われたことはありませんでしたが、堅個な城砦として両毛地方に睨みを効かせました。戦国末期、関東は小田原北条氏の支配下となり、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、足利長尾も滅亡しました。」