Images of 髙山健一
中将タカノリは「それまでのフォークは弾き語りに毛の生えた程度の音楽が多かったんですが、拓郎さんはR&Bやロック・ポップスなどの知識に長けた人だったから、音楽的にも単なる弾き語りだけじゃなくバンドサウンドにこだわり、フォークをポップスに昇華する役割を果たしたと思う」、篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている 矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった 拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」と批判した 牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました 初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って男とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う 『元気です 』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を元に人生を生きてきたと感じている」と述べた スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉、桑田佳祐 そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている 但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター (GIBSON J-45) を15万円で譲った。この2人は非常に仲がよかった。小田和正が、1982年に日本グラミー賞を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミンや矢沢永吉、さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある。安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の猫の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初 拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ、加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木のディスコに行っていたという 安井の自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた 誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いをさらに強くした 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「芸能界はもっとチャーミングな世界なの!ジュリーを見倣いなさい!」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」等と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した 「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している 映画「恋妻家宮本」は重松の「ファミレス」であり、映画の中で拓郎に言及する真面がある 映画「恋妻家宮本」の挿入歌(エンディング)は「今日までそして明日から」で、出演者全員で歌唱する場面がある 雑誌「すばる」2010年3月号では拓郎にインタビューを行い、ディープな内容を聞き出すことに成功している。
「『ザ・ヒットパレード』がなかったら今はない」と発言している アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり、フォークのみに依拠しているわけではない ファースト・アルバム『青春の詩』にブルースロック調、オーケストラをフィーチャーしたサンバ、ボサノヴァ、ジャズ調とフォークでない楽曲を収録している 多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある 篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている 北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている 矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった たくろうの場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している。