Images of 黒い石印
山形市街で寺院が建ち並ぶ寺町の一隅に在る最上山専称寺(せんしょうじ)は出羽山形城主である最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)の二女駒姫(こまひめ、1581~1595)の菩提寺で、浄土真宗大谷派の寺院です。
文禄4年(1595)美人の誉れが高い駒姫は15歳の若さで関白秀次の聚楽第に召されますが、この年の7月に太閤秀吉の怒りに触れ関白職剥奪、高野山に追放の後切腹させられ、駒姫を含む子女妻妾三十数名についても京都三条河原にてことごとく斬首されることになります。
駒姫の死に対し義光は深く悲しみ天童にあった浄土真宗大谷派の専称寺を山形の城下町に移し、黒印地(後には朱印地)として14石と林地を寄進して亡き駒姫の霊を慰めます。
慶長5年(1600)天下を二分する関ヶ原の戦いでは義光は徳川家康の東軍として参戦、直江兼続率いる上杉方2万数千の軍勢を山形西方で迎え撃ちその戦功により57万石の大大名に列せられます。
以降最上家の山形藩は3代後いわゆるお家騒動によって領地接収となり近江国大森へ1万石を以て転封となります。
現在の本堂は元禄16年(1703)に再建されたもので、桁行15間、梁間13間、大屋根の高さ25mの大規模木造建築物で、屋根四隅には名大工である左甚五郎作と言われる「夜鳴力士像」が鎮座しています。
更に境内にある鐘楼は秀吉から当代天下一の称号を与えられた西村道仁という名工による作で、鐘楼についても桃山時代の様式を今に伝える建造物となっています。
2022年12月3日追記
当該寺院のホームページによれば下記の通り説明されています。
『 専 称 寺 の 歴 史
真言宗大谷派の寺院「最上山専称寺」は、さくら並木で知られる馬見ケ崎川の西に位置し、山形市内随一の大伽藍として知られています。寺の歴史は、1483(文明15)年に始まり、浄土真宗中興の祖である蓮如上人の高弟、願正が現在の天童市高だまに草庵を建て、後に専称寺と号するようになりました。1595(文禄4)年、最上義光の娘である駒姫が、豊臣秀吉に謀反の疑いがかけられた秀次に連座し、わずか15歳で処刑されてしまいます。義光はこれを悲しみ、駒姫の供養のため、娘の生母である大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、高だまにあった当寺を山形の二王堂小路(現在の旅籠町)に移し、駒姫の菩提寺としました。その後、1598(慶長3)年に寺領を寄進して現在地に移転。壮大な伽藍を建立し、13ケ寺の塔頭を持つ寺町を造り上げました。4.974坪の境内には、県指定有形文化財の梵鐘や鐘楼、元禄時代に建立された市指定有形文化財の本堂。「雪降り銀杏」と呼ばれる市指定天然記念物のイチョウの巨木もそびえています。庫裏の一部には、駒姫の居室を移築した一室があり、肖像画も納められました。本尊は、春日作と伝わる阿弥陀如来。最上家から寄進された青磁の花瓶などの寺宝も多く、本堂の四隅にある力士像は左甚五郎と伝わります。』
『 駒 姫 の お 話
悲劇の美少女「駒姫」は伊達政宗の伯父であり出羽国の大名である最上義光の次女として、1581(転生9)年に生を受けます。東国一の美少女といわれ、時の関白・豊臣秀次に繰り返し所望され、「おいまの方」として側室に上がることになりました。
長旅の果て、やっと京都に着いた頃、秀次は秀吉の命で切腹という悲運。側室として秀次にも会ってないにもかかわらず、駒姫も処刑との命が下ります。この事態に、義光は八方手を尽くして必死に命乞いをしますが、その想いもむなしく、1595年(文禄4)年8月2日、牛車に乗せられて引き回しにされた後、駒姫は凄惨極まる方法で刑場の露と消えてしまいました。
一説には、義光が淀君を通じて助命嘆願を行い、秀吉も「鎌倉で尼にせよ」と早馬を走らせたが、一足遅かったとも伝わります。処刑された遺体は幼子も含めて次々と穴に投げ込まれ、「悪逆塚」と彫られた石が据えられました。
義光夫婦の嘆きようは尋常ではなく、間もなく駒姫の母である大崎夫人が後を追うように亡くなってしまいます。義光の恨みは深く、関ヶ原の戦いでは豊臣方に敵対する東軍に属し、その功績により出羽山形藩の初代藩主となりました。』