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(表紙写真・・・サラエボ事件の謂れの橋・ラテンスキー橋)サラエボ観光バルカン半島の旅も、いよいよ最終日(9日目)。後にも先にも今日が最後の日である。これまで不安定な天候ながらも、傘を使う機会もなく、快適な旅を過ごしてきた。昨日のドブロヴニク観光では、これまでになく素晴らしい快晴に恵まれ、陽光に輝く旧市街の思い出に残る印象深い観光ができた。ところが昨夜深夜、突然の轟く雷鳴に起こされ、外はじゃじゃ降りの雨となって、果たして今日の天気はどうなるのか?と気をもまされる。ところが朝起きてみると、昨夜のことは忘れたかのように空は晴れ上がって、夜来の雨はどこへやら。最終日の今日も好天に恵まれそうだ。ボスニアへ今朝は7時半出発と早いので、5時半に起床。大きく背伸びして深呼吸いちばん、ドブロヴニクの新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで体調を整える。身支度をして早目の朝食を取ると、いよいよ出発。最終日の今日は、ボスニア・ヘルチェゴビナの首都サラエボの観光である。出発時の気温は19度。バスは再びボスニア国境を越えて、これから隣国の首都サラエボへ向かう。車窓に流れる海の風景は、昨日とは違って鏡のようにベタ凪である。その素晴らしい風景に見とれていると、やがてボスニアの国境検問所に到着である。今度は前々日のようにフリーパスではなく、ここではバスストップとなる。前回のように行き先がドブロヴニクだけに特定できないから検問チェックがあるらしい。 間もなく係官が車内にやって来て、みんなのパスポートをチェックし始める。何のことはない。広げて提示するパスポートを手に取りもせず、ただ一瞥するだけである。チェックはすぐに終わり、バスは再び走り出す。さあ、これでボスニア・ヘルチェゴビナ入国だ。ボスニア・ヘルチェゴビナのこと バルカン半島の北西に位置する共和国で首都はサラエボ。正式国名はボスニア・ヘルチェゴビナで人口約400万人。国土面積は51,129平方キロメートルでクロアチア、セルビア、モンテネグロと国境を接している。宗教はイスラム教(44%)、セルビア正教(31%)、カトリックで言語はボスニア語、セルビア語、クロアチア語。ユーゴスラヴィアからの独立後、大多数のボシュニャク人、クロアチア人に対して少数派のセルビア人が分離独立を唱えてボスニア紛争を戦った。この国は、東西の文明の十字路としてオスマン・トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国等、各時代の支配者文化の影響を受けてきたために、多民族の重層的な文化を残す歴史的な側面を持っている。また、チトー・旧ユーゴスラビア大統領の下、民族友愛、自主管理社会主義、非同盟を柱に経済・社会発展を遂げ、その象徴として、首都サラエボでは冬季五輪が開催された。・歴史この地域は紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラブ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治したが、15世紀後半までには全域がオスマン帝国の支配下に入る。それとともに大半のボゴミル教徒はイスラムに改宗し、他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。 19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義、ロシアの汎スラブ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。大戦後、サン・ジェルマン条約によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。その後、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアとヘルツェゴビナが統合され、ユーゴ連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナが誕生した。・軍事力ムスリム、クロアチア系、セルビア系の各民族がそれぞれ独自の軍事力を有している。05年6月1日、3民族混成の統合部隊36名がイラクへ派遣され、多国籍軍の指揮下で爆発物の処理に従事している。・経 済 07年の国内総生産(GDP)は100億ドル。日本からの輸入は7340万米ドル(2007年)で電気機器、精密機器など。日本への輸出は20万米ドル(2007年)で木材、繊維製品など。また経済援助として日本から無償資金協力や円借款が行われている。 首都サラエボへ国境を越えて内陸部に入って行くと、のどかな緑の風景が広がっている。濃い緑と流れる白い雲、それに紺碧の空が山脈を背景に素晴らしい風景を演出している。そんな中に、教会の塔が見えたり、畑が見えたり、町並みが見えたり、そしてモスクのミナレット(モスクの塔)が見えたりなど、車窓からの風景を楽しませてくれる。 出発から3時間ほど走ったところで休憩となる。そこは、のどかな野っぱらが広がる中にぽつんと建っているガソリンスタンドで、市街の雑踏から離れてひっそりとした場所は格好の休憩場所を提供している。ガソリン価格はユーロ表示となっているが、単位がガロンなのだろうか? リッターにしては値段が高過ぎる。温度表示は29℃となっているが、そこまで高くはない感じだ。傍らの草むらに遠慮がちに咲くアザミの花がとても印象的である。ここを後にすると、バスはネレトバ川の支流沿いにひた走る。山あいを流れる川はゆるやかで美しい。下流にダムが造られているらしく、そのため流れはゆるやか過ぎて、どちらが川下か判別できないほどである。所々で広い湖のようになっている風景が美しい。レストランで昼食こうして川沿いに走ること30分、12時ごろに川沿いの素敵なレストランに到着。朝の出発からこここまでの移動にずいぶんと時間がかかったものだ。ここで昼食となるのだが、料理は現地料理のチェパブチッチでクロアチア風ソーセージとのこと。なかなか美味しいもので、これに似た料理はルーマニアやブルガリアにもあるのだが、食の歴史的には共通するものがあるのかもしれない。ブルガリアではケバプチェというのだが、発音もよく似ている。レストラン前の川は広くなって素敵な湖になっている。周囲の緑に囲まれた鏡のような湖面には白い雲が映えて素晴らしい景色を見せている。こんな風景に出遭うと、なんだかほっとした気持ちにさせられる。道路沿いに建つこの静かな湖畔のレストランは、旅行者にとって格好の休息場所といえよう。サラエボまで30分 食後のひと時を終えると、再びサラエボへ向け走り続ける。車窓に流れるきれいな草原や山並みの風景を眺めていると、やがて首都サラエボの街に到着する。昼食のレストランから30分ほどの距離である。首都サラエボのこと ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。標高約500mの高地に位置し、人口は約50万人。オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーが訪問中の1914年6月28日、セルビア人青年に射殺されたサラエボ事件(これが世界第一次大戦のきっかけとなった)と、1984年に開催されたサラエボオリンピックで世界に名前を知られている。サラエボの街は、明るく賑やかなバシチャルシャ Bascarsija の市場にうす暗い小道の雑多な建造物が混じりあっている。モスクの塔(ミナレット)に混じって、カトリックの大聖堂や正教会の塔、シナゴーグ Synagogue(ユダヤ教の礼拝堂)のドームが天を仰ぐ。モスタル Mostar を流れる急流、ネレトバ川 Neretva には「古い橋」(Stari Most)が架かっている。短時間の観光サラエボの街は周囲を標高1500mの山々に囲まれた盆地の中にある。だから戦略的にも周囲の山々から敵軍に砲撃されると苦戦を強いられることになる。街自体が標高500mの高さにあるので、冬は寒く、夏は涼しそうで最高気温も高くなさそうだ。 市内に入ると、まず目に留まったのが路面電車で、市内を縦横に走って市民の足になっているようだ。1984年にこの地で冬季オリンピックが開催されたこともあり、社会インフラはかなり整備されたのだろう。バスは川沿いに走りながら、サラエボ暗殺事件のラテンスキー橋を通り過ぎ、旧市街の近くでストップ。ここからテクテク歩いて旧市役所前を通り、旧市街のバシチャルシャへ向かう。サラエボ事件当時は市役所だった建物。ボスニア紛争時は多数の報道陣がここにこもって世界へニュースを発信したとか。 間もなく遠くにモスクの高い尖塔ミナレットが見えてくる。このモスクの近くがバシチャルシャでオスマン帝国統治時代の面影を色濃く残す職人街なのである。昔はトルコの職人街だったという。通りの両側には長屋風の建物が建ち、その中にずらりと店舗が並んでいる。この長屋風の建物が一見中国風のムードをただよわせて独特の雰囲気を醸し出している。この東洋風の面影が残る建物は内戦後に修復されたのか、新しい感じである。  バシチャルシャの職人街 居並ぶ店舗には銅製の食器や置物などが並んで職人街らしい様子を見せている。そこを通り抜けて横手に入ると、先ほど目にした尖塔のモスクに出る。この街は半数近くがイスラム教徒だけに、各所にモスクが目立つ。それと同時にカトリック教会、セルビア正教教会などが仲良く共存する街でもある。宗教は異なっても、目指す最終目的は人間の幸福なのだから、何も問題はないはず。ところが、複雑怪奇な人間の世界ではそうも行かず、激しい宗教対立と民族対立で平和にはほど遠い。困った現実である。 モスクの庭に入ると、ムスリムたちがフロアで静かな祈りを捧げている姿が見える。ここのミフラーブ(聖地メッカの方角を示す壁のくぼみのこと)は屋内ではなく、むき出しの外面の壁に設けられている。祈りのための部屋はないのだろうか? 普通は屋内にあるものなのだが・・・。どこから来たのか、モスクの庭の木陰では子供たちが憩っている。課外授業なのか教師に引率されて、この界隈を見物して回っている。我々もモスクの横の短い通りを見物して回る。が、若干の商店やカフェがあるくらいで、大してめぼしいものはない。このストリート以外には出ないでくれとのお達しが出て身動きが取れず、ただ短い通りを行ったり来たりするだけである。 このバシチャルシャ界隈には短時間の滞在で終わり、次はラテンスキー橋の方へ歩いて行く。幾つかの路地を通り抜けながら歩いていると、橋の近くの建物の掲示板にサラエボ事件の写真が掲載されている。フェルディナント大公の葬儀らしい写真や暗殺犯人のプリンツィプの写真などが掲示されている。このすぐ先が川になっており、ここに問題のラテンスキー橋がかかっている。暗殺はこの橋の上で実行されたのではなく、このすぐ近くで大公夫妻はピストルで射殺されたのである。当時は犯人の名を取ってプリンツィプ橋と名付けられていたそうだが、ユーゴスラビアの崩壊後は以前の名前に戻されたという。現在では、この橋がサラエボ事件の謂れの橋として観光ポイントの一つになっている。その昔、学校の世界史の勉強で必ず登場するのがこのサラエボ事件で、第一次世界大戦のきっかけとなった事件だけに重要なキーワードであった。それが強い印象となって記憶の底に残っていたのだが、それから数十年後の今、こうしてその現場にたたずんでいると、非常に感慨深いものがある。ラテンスキー橋を渡ると、川沿いに散策しながら下車した地点に戻る。再びバスに乗って今度は84年に開催された時のオリンピックスタジアムに向かう。到着してみると、現在はサッカー競技場になっているようだが、何だか廃屋の感じで付近は殺風景なところである。ただ目立つのは、この周辺にびっしりと並ぶ白い墓標である。92年から3年間にわたるボスニア紛争時の悲しい犠牲者たちの墓なのだ。民族対立は悲しい結果を生むことになる。人類にはそれを乗り越える知恵と共存共栄の精神があるはずなのだが・・・。空港へ以上で、わずか1時間のバタバタ観光を終えると、いよいよ終着点のサラエボ空港へ向かう。ここからイスタンブール経由で帰国の旅になる。これでとうとう今度の旅も終わりである。町の郊外にある空港は規模が小さく、乗客も少ない感じでひっそりとしている。 この10日間、イタリア、スロベニア、クロアチア、ボスニアと4ヶ国をまたにかけ、チャーターバスで走り抜けて来たわけだが、よく事故もなく予定の旅程をすべて完了することができた。今度の旅は見所が多く、多くの素敵なシーンが見られて思い出深い心に残る旅となった。その満ち足りた思いで窓際のシートに腰を下ろすと、機は静かに駐機場を離れる。あとは関空に無事到着することを祈るばかりだ。(この続きはこちらへ・・・⇒ http://yasy7.web.fc2.com/)

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