鉄道開通に依り東京対那須間移動が容易になった事は、他方、華族の存在、即ち、明治の元勲、政府高官、及び、旧藩主階層をして政府に依る国策殖産興業政策と共に那須野ヶ原に欧州王侯貴族生活の一端に垣間見られるが如き華族に拠る勧農牧畜植林興隆を招来させた。即ち、明治維新から間もない、明治4年(1871年)12月23日~明治6年(1873年)9月13日に実施された岩倉欧米訪問団(いわくら おうべいほうもんだん)に拠り特に欧州で目撃された王侯貴族に依る勧農自給体制に興味をそそられ那須野に対し反映された事は想像に難くない。那須野ヶ原が手付かずで未開の原野の時代に東北方面視察往還時に該地域の利用法と将来に着眼した人物が存在した。松方正義(まつかた まさよし)(天保6年(1835年)3月23日~大正13年(1924年)7月2日)は、大蔵大輔兼勧農局長在任中に那須野ヶ原の将来性に着眼した1人である。那須野は冬季こそ那須山脈から吹く強冷風に曝されるが春季から晩秋まで気候が安定してる為に水利さえ整えば土地として利用価値在りと見積もられた。明治10年代末期から明治30年代前半に懸けて、肇耕社(ちょうこうしゃ)や那須開墾社(なすかいこんしゃ)の如き、那須野ヶ原開拓最初期時代の結社型農場が当初目的を達成し次々と発展的解消を遂げ、此れら農地が買収対象となり結社型農地から華族農場への変革を見せる。即ち、肇耕社(明治19年(1886年))解散1000ha→三島通庸(三島農場)約1000ha那須開墾社(明治21年(1888年))解散3400ha→松方正義(千本松農場)約1630ha→矢板 武(矢板農場)→佐々木高行(佐々木農場)加治屋開墾場(明治34年(1901年))解散500ha→大山 巌(大山農場)→西郷従道(西郷農場)東肇耕社(明治14年(1881年))解散680ha→青木周蔵(青木農場)約1530ha深川農場(明治26年(1893年)解散250ha→鍋島直大(鍋島農場)等々である。乃木希典(のぎ まれすけ)(嘉永2年(1849年)12月25日~大正元年(1912年)9月13日)は、明治23年(1890年)に伯父の吉田清皎(よしだ きよかつ)所有の農園13町歩の譲渡を受け乃木農園を開設した。乃木は長州萩藩出身でありながら立身出世や栄達に興味を示さぬ性格故に、特に同じ長州出身の 桂 太郎(かつら たろう)(弘化4年(1848年)~大正2年(1913年)10月10日)とは根本的にソリが合わず陸軍部内で衝突を起こす都度下野し、自身の農場に蟄居し勧農に勤しんだ。1)明治25年(1892年)2月~12月2)明治31年(1898年)2月~10月台湾総督の責任をとって辞任。3)明治34年(1901年)5月~明治37年(1904年)2月北清事変で部下の不始末の責任をとった形である。大山 巌(おおやま いわお)(天保13年(1842年)~大正5年(1916年)12月10日)は、従兄弟で崇敬の対象たる西郷隆盛(さいごう たかもり)(文政10年(1828年)1月23日~明治10年(1877年)9月24日)が西南ノ役で反乱軍首謀者に担がれ、此れを討伐する政府軍側高級士官として参加した事が終生の苦痛の種になった事は想像に難くない。事実、大山翁は終生隆盛との葛藤をして西南ノ役終息後、自身の郷里たる鹿児島を2度と訪問しなかった程である。更に、妻捨松との間に生まれた最愛の長男 高 は親の七光りを嫌い、敢えて陸軍士官学校を受験せず、学習院中等部から海軍兵学校第35期を受験合格(明治37年11月18日附)し(合格順位183名中第14位)、卒業時(明治40年11月20日附)(卒業順位171名中第27位)に上位グループに入っていたが少尉候補生任官後の欧州方面遠洋練習航海で乗艦した巡洋艦 松島が台湾馬公(現 高雄)港内で原因不明の爆沈事故(明治41年(1908年)4月30日)で殉職した事も大山翁の老後に於ける悲しみを亦倍増させたものと推察される。その様な大山翁にとって那須野ヶ原での開墾と生活はひと時の精神的安息の場になり、那須野をこよなく愛した大山翁は死際に自身の遺骸を那須野ヶ原に葬る事を遺言し、死去後、直ちに遺骸は列車で西那須野駅まで運ばれ現在の墓所に葬られた。全国的に小作争議が吹き荒れた昭和初期、那須野ヶ原も例外とは為り得なかったが、那須野ヶ原に於ける小作人は他所に比較して収益や待遇がずば抜けて良好だった為に特に混乱も無く自然収束した。昭和12年(1937年)7月7日に中国北京郊外盧溝橋で勃発した日華事変(にっか じへん)は陸軍をして軍用馬を大量に必要とした事から那須野ヶ原の各農場に於ける馬の飼育に追われ、西那須野駅、東那須野駅共に軍馬発送が関東地区で1、2を争う記録的数値となる。大東亜戦争終結後、昭和22年(1947年)に占領軍GHQが施行した農地改革に拠り大部分の地主階層は東京在住を理由に不在者地主と認定され土地は小作人に分配されたが、此れに依り那須野ヶ腹では大規模農場の存在が消滅し分散型小規模農家が林立し分業的な非能率、且つ、大規模生産が困難な農業政策を生み、現在に於ける我が国の自給自足体制を低下させる愚挙を招来させた。平成6年(1994年)に政府は国営那須野ヶ原総合農地事業が完了し茲に114年に亘る開拓史に幕を下ろす。現在、那須野ヶ原は嘗ての如き農業を営む者が減少し急速に宅地化が進行しているが、碁盤目状の道路と土地との存在が明治期の開拓時代の痕跡を今に残す。表紙の写真は大山公園の樹齢90年余の いろはもみじhttp://suido-ishizue.jp/kindai/nasu/index.htmlhttp://www.inakajin.or.jp/sosui_old/tochigi/a/612/index.html

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