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山詞

jeanne6663

Meaning

山詞 やまことば
noun (common) (futsuumeishi)
  • mountain language (euphemisms used by hunters, etc. when in the wild)

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Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。 TK-COZY-MST東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじと松本みつぐ・田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」「EPICはロックのレーベルなのに、ダンスなんて軽薄だ」と議論が巻き起こった これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMのメンバー・ソロミュージシャンとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めたクレタパブリッシング刊「昭和50年男」May Vol.004「シーンを刷新し続けたエピック・ソニーとブームへの布石を築きはじめた小室哲哉」pp.14-17より  形態として「avexに小室を貸している」「演奏権は確かにEPIC側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」と丸山が体裁を保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる活動収入・印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山がクレタパブリッシング刊「昭和50年男」May Vol.004「シーンを刷新し続けたエピック・ソニーとブームへの布石を築きはじめた小室哲哉」pp.14-17より 、「エイベックスとの仕事で生じた小室の収入の数%」をEPICが頂く「日本経済新聞」2022年7月20日号「私の履歴書 丸山茂雄 (20) レーベル米国流」p.44より 形をとり、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」日経BP社刊『日経エンタテインメント!』1998年3月号「ビジネスとして語る、X解散、GLAYの成功、そして海外進出 『必ず売る、意地でも売る』-日本の音楽産業との10年戦争」pp.24-27,「エイベックス期待の新ヒットメーカー」p.95より 「音楽プロデューサーとしての活動で生じる収入」「テレビ・イベント等への出演料」は小室の取り分になった。ダイナマイトマシーン山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎 (ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティー、TENSAW)、朝井泰生、今川勉 (ex ECHOES) もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。TK-COZY-MST東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじと松本みつぐ・田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」でシングル売上200万枚を突破 「ジャングルで世界一の売上を記録したプロデューサー」として海外の雑誌でも取り上げられた。フジテレビドラマ「ひとりにしないで」の音楽を久保こーじと共同で担当。 マーク・パンサー、KEIKOとともに、自身が参加するユニット「globe」を結成。トーコが、小室哲哉と日向大介の共同プロデュースでデビュー。未来玲可が小室哲哉と久保こーじの共同プロデュースでデビュー。 サッカー・W杯フランス大会の公式アルバムにジャン・ミッシェル・ジャールとともに「TOGETHER NOW」で参加。自他共に認める「怒らない性格」であり、阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」、久保こーじは「殴り合いはもちろん、怒鳴りつけている所も見たことがない ブツブツと文句を言うこと位はありますけど、温厚な人なんですよ」、岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」 と語っている。KUMANO TRAVEL3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンのクラシック音楽の練習曲で只管同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既にクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていたオリコン・エンタテインメント刊『オリコン・ウィークリー』1987年4月27日号p.29より。。小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった。ただしそれが功を奏し、後に「和音・管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった。「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした 1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した その時の志向はジョルジオ・モロダー・ELO・バグルスのような「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた宝島社刊「宝島」1991年2月24日号pp.58-60「電気グルーヴVS小室哲哉(TMN)」より。。そうしていく内にデモテープが小坂洋二・小林和之の目に留まり、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった。1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞 TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場 しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が飾らないように、スケジュールを自ら調整するようになる。小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」と議論が巻き起こった これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた 形態として「演奏権は確かにエピック側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」と丸山が保障するすることで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる3つの音楽著作権印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が頂く形をとりクレタパブリッシング刊「昭和50年男」May Vol.004「シーンを刷新し続けたエピック・ソニーとブームへの布石を築きはじめた小室哲哉」pp.14-17より 、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」は小室の取り分になった日経BP社刊『日経エンタテインメント!』1998年3月号「ビジネスとして語る、X解散、GLAYの成功、そして海外進出 『必ず売る、意地でも売る』-日本の音楽産業との10年戦争」24P-28Pより。。1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・芝のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っているリットーミュージック刊『ギター・マガジン』2017年4月号『小室哲哉が語る歌謡曲とギター』pp.76-79より。。プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマンとレコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイングの長戸大幸のプロデュース手法を参考にしたとされる 実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた 松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った。1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい 部分的に見て頂いても構わないし、最初から最後まで見てくれてもいい アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい ライブの内容やスケジュールも監修してください 製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり集英社刊「Bart」1995年3月13日号『今は、勝てる勝負しかしていない』pp.36-41より 宝島社刊「宝島」1995年5月17日号「宝島VIPルーム 小室哲哉 90年代最大のヒットメーカーが語るクールな市場戦略」pp.50-53より 、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った 小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった講談社刊『月刊現代』1997年7月号『年収20億を越す天才はマードックとも手を組んで『T・K(小室哲哉)』はなぜ巨大産業に化けたのか』pp.232-246より。。1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートした。2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、および5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった 『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった その後もレコード会社を問わず超新星、SMAP、北乃きい、浜崎あゆみらへ楽曲を提供している 小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた 一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。ニューミュージックのアマチュアバンド「哀婉」で活動。洋楽専門のレコード会社からの募集でラジオ局宛のリクエスト葉書を書くアルバイトを行うことで本格的に音楽業界に関わり始める。1週間に500~600枚書き、「イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』をかけて」という内容だけでも千枚送っていた。報酬は現金ではなく、70~80枚毎にコンサートのチケット・新作のサンプル盤のどちらかを1,2枚もらっていた。11月22日、インテル・サン・マイクロシステムズのハードウェア・技術面のサポートを受け、初の公式ウェブサイト「Planet TK」をスタートさせた サーバはサンディエゴに設置していた日経BP刊「日経エンタテインメント!」1999年8月号p.59より 「Yahoo! Internet Guide」2001年6月号pp.238-239「TK×INTERNET NO.1『オフィシャルサイトの変遷』」より。。12月31日、trfの「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」で第37回日本レコード大賞を受賞。 自身のレーベル「ORUMOK RECORDS」をスタート。華原朋美、H.A.N.D.をデビューさせる。安室奈美恵のアルバム『SWEET 19 BLUES』が売上300万枚を突破。オリコン歴代アルバム初動記録、累計記録(女性部門)を更新。安室奈美恵のシングル「Don't wanna cry」で第38回日本レコード大賞受賞。 3月、dosがORUMOKからデビュー、R&Bへのアプローチを開始する。DJ DRAGONとプロデュースユニット『tatsumaki』を結成。後に鈴木あみ、BALANCe等に関わっていく。安室奈美恵のシングル「CAN YOU CELEBRATE?」で売上が200万枚を突破、小室プロデュースのアーティストのシングルとしては最高の売り上げを記録、 第39回日本レコード大賞を受賞。SEIKOと共同で腕時計「frequency」を開発する 「クロノグラフ機能」「30BPM - 250BPMまで調節できるリズム機能」「発光で刻むメトロノーム」等を内蔵させた。globeのシングル「wanna Be A Dreammaker」で第40回日本レコード大賞を受賞。 香港の中国返還1周年記念式典に参加。globe・grace ip・OLIBIAと共にパフォーマンスを披露した。アーティスト養成通信講座「TK MUSIC ONLINE」を開始。Rojamよりネット配信と通信販売により新曲を発表した。RojamからはZoieとCELINA。factory ORUMOKからは坂口実央、MIYUKI、清水まなぶ、ステレオリキッドなどがデビュー。ネット販売とコンビニ販売を視野に入れた両社であったがレコード販売以外はほとんど実現できなかった。 11月、麻薬・覚醒剤乱用防止活動としてTRF、BALANCeと共に「イェス・トゥ・ライフ東京大会」に参加。同日Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚。DJ DRAGON、原田大三郎とともに「GABALL」結成、トランス・ミュージックへの傾倒が始まる。Rojamのレコード販売事業は縮小。 SAMプロデュースクラブ・イベント「zento」にTRF、BALANCe等と共に、参加・楽曲提供。6月3日 - 音楽とテクノロジーを融合させたイベント「INNOVATION WORLD FESTA 2017」に2016年に引き続き出演。6月21日 - アルバム『GET WILD SONG MAFIA』収録曲「GET WILD 2017 TK REMIX」と石野卓球(電気グルーヴ)が手掛けたアルバム未収録バージョン「GET WILD(Takkyu Ishino Latino Remix)」がアナログレコードで発売。7月17日 - 7月23日 - 府中市市民活動センター「プラッツ」に新たに建設された多目的ホール「バルトホール」のオープン記念イベント「けやきの森のハーモニー」の監修を務める。レコード会社およびレーベルについては以下の表記とする。自らの行う転調のやり方について、「これだけ多くの音楽が氾濫している中で、曲にどうインパクトを持たせて、『もう一度聴きたい』と思わせるかという所で転調を理論的に取り入れている」株式会社プレイヤー・コーポレーション刊「Player」1984年5月号pp.56-59「TM NETWORK」, p.215「KEYBOARD MANUAL 第5回 『転調』の効果的なやり方」より 「コーラスのリフレインは4~8回はやるでしょ そのときに転調して一瞬緊張感を持たせる」「どこでキーが変わっているのか・どこがサビでどこがブリッジなのかを分からないようにする」「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」「お互いのキーの共通コードをつないで転調する そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す 共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している。コード進行では「F-G-Em-Am」、「Am-F-G-C / 6451」(例:TM NETWORK「Get Wild」「RESISTANCE」「humansystem」、H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」、trf「masquerade」、globe「DEPARTURES」)、「短三和音+五音音階」、「sus4(サス・フォー)」(例:渡辺美里「My Revolution」講談社刊『Views』1995年6月号「小室哲哉の『ミラクル』全角度研究」pp.56-67より 、小泉今日子「GOOD MORNING-CALL」、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」)、「add9(アド・ナインス)」(例:globe「DEPARTURES」)を多用する傾向にある。自身のポリシーとしては「『音の中に言葉があるはず』という感じで、メロディーの響きといいたいことの接点を見つけ、それらをコラージュしていく」「反体制派の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うロックの新たな存在意義にしたい だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう 代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」集英社刊「Bart」1995年10月9日号「BEHIND the MASK 小室哲哉 坂本龍一 対談」pp.16-17より 「10代が必ず通らねばならない道と対峙したときに、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」「コンセプトのベースが恋愛でも友情でも、つかめそうでつかめないギリギリの鋭い感覚がある部分を描く」「提供した時点でその人のものになれるようにしている globeでは特にそれを意識している」「歌手の姿形・声をハンドルネームが持つ匿名性と解釈して担保し、それを通して自分の理想とする女性像を試行錯誤しながらも、純粋に照れを抜きに書いていた気がする」「『でも』『だから』『じゃあ』等の接続詞を使って、言葉に対してリズムを作っている」角川書店刊「CDでーた」2002年4月20日号p.101より 「女性目線の歌詞を書くときは、女性は常に上から目線のキャラクター」講談社刊『GLAMOROUS』2013年3月号「私たちSHIBUYA生まれの小室育ち」p.22より 「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」「常に長所・短所両面の揺れを書いている そこに男女の垣根は関係ない」「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています 『こういう風に思いますよね?』という、常に『isn't it?』だったり、『don't you?』が最後に付く」と回答している。バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「ボーカル・コーラスもハーモニー・コード進行の一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか?」という方針を「Self Control」制作を切っ掛けに常に考えていった そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「1拍半・半拍半で符点を付けて、タイでつなげ、さらに16ビートをつけて、その縦軸の中に完璧なコード進行を入れて、最後に歌詞を詰め込むことで、前に進もうとする推進力を付ける」という手法を開発した 小室はその手法が自身の本質と合うことを自覚したのは、1989年のことであるソニー・マガジンズ刊『WHAT's IN?』1999年8月号「小室哲哉 動き出したグローバルマインドの夢」p.100より。。同時に音色・リズムは強くスウィングしてないと生理的に受け付けなり、スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての触れ幅が異なっている。依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、必ず「曲デモ」と称されるデモテープを作る これを聴いてレコード会社の人・CMディレクターに「サビを直して」「これでは○○さんの曲みたいだよ」「いつもの小室さんがやるようなメロディでお願いします」等、色々な注文をされる 依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手ができないため1回〜3回は、手直しがある 1番最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多いリットーミュージック刊 「Hiroyuki Sawano 澤野弘之」より  クレームに対しては「むしろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げることもある『関ジャム 完全燃SHOW』 2015年7月12日放送分のインタビューより  1曲作るのに没になること前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しコンペティションに臨んでいた日経BP刊『日経ネットナビ』1996年9月号「小室哲哉、インターネットのすべてを語る『僕の“現在”を感じてほしい』」pp.36-39より。。発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある。# 昼過ぎにコンセプト・音色の打ち合わせを行う。# 夕方16~17時、遅くとも深夜にはマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・リフ・音色でいこう」と決める。# 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を、マニピュレーターと相談しながらさらに編集する。# 構想にフィットしそうなリズムパターンをドラムマシンで制作する。# リズムパターンに合わせて全体の構成やコード進行を考える。# 起承転結の通っているメロディを作らずに、思いついたフレーズを次々に作っていく。その内に溜まった音源データを聴いて、「音色が格好良い」と思ったフレーズにメロディを足していくソニー・マガジンズ刊「僕らの音楽 対談集 3」 鳥越俊太郎著pp.78-94より。。# おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、プリプロダクションを行わずに「ライヴでギタリストがアドリブのギターソロを弾く」感覚で録音してしまう。# 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをミュージックシーケンサーに打ち込む。# 作業が終わるのは翌朝の7時頃。スタッフと雑談・打ち合わせをしたり、食事を食べた後に自宅に戻るが、何かしら情報収集のために本を読んでいることが多い。以上の工程をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが、完全に確立できたと思えたのは渡辺美里の「My Revolution」を作った辺りとのこと その時の方向性は「当時流行していた洋楽のように4小節とも同じコード進行・バース(Aメロ)→ブリッジ(Bメロ)→コーラス(サビ)でメロディだけは移り変わっていき、予兆無しにコーラスが流れる展開」を目指していた。19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だったため、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだか分からない」とダメ出しされた その苦い経験もあり、『レコード会社のカセットテープ・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いラジオカセットレコーダーで聴かれてもディレクターの気を引くことができるか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、ミキシングも行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良いものを目指した ただし、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまうこともあるソニー・マガジンズ刊 『WHAT's IN?』 1990年4月号「小室哲哉『アイドル・サウンド』を語る」p.61より 角川書店刊『月刊カドカワ』1992年11月号「立体特集 小室哲哉  ソロアルバムの全貌とTMNの行方を探る」pp.125-137より。。クラブでのライブはトータルに見ると普通のコンサートより観客の支払いが高く付くので、「観客が満足してくれるのか」という心配が付きまとい、普通のコンサート以上にサービスする クラブのスタッフに制止されない限り本番に3,4時間はかけ、リハーサルの段階で曲をつなげるための時間として2時間は作る その時の要領は「椀子そば」「1979年頃にレコード店を回ってギター一本で歌う山下達郎さんに近かった」と話している。ギターはコード進行しか弾けず、周囲に圧倒的に上手い人が沢山いたので、やる気が起こらなかった。ギタリストは「キーボードで鳴らして楽曲の元々のコードに混じると鳴らせないコードでも、ギターがその部分をサポートしてくれる その他にもイントロで即興演奏で遊んでくれて、種類を持ち変えるだけで全てが変わるから、ライブでは特に必要不可欠」と評している。高校生の頃から本格的に音楽プロデューサーになることを志し、その立場と役回りに拘った。「外部からプロデューサーとして推薦されたら、アーティストより偉いから速く物事が進む 例えばヨーロッパで『小室というプロデューサーがいるだろう』となったら、『あいつに相談したら窓口とつながりがあるから、レコード会社を紹介してくれるぞ』と様々な話が出てくる これが『キーボーディストで小室がいるよ』となったら、そこで終わってしまって後に続いていかないんです」「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが窺えた 無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一するためにまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」毎日新聞社刊 『サンデー毎日』 2014年4月6日号「〔住吉美紀の熱烈対談〕すみきちのぶっちゃけ堂/107(最終回) 音楽家・小室哲哉」pp.74-78より。と考えていた。楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORK、globe、GABALLなどの音楽ユニットのリーダーとしても活動する。ユニットの一員としての活動はレコード会社のディレクターや芸能事務所に任せるのではなく、飽くまでもメンバーによる提案・主導で行い、マネジメントスタッフもそれを可能にできるほどの柔軟性のあるスタッフが配置された。ライブ活動にもプロデューサーとして一歩引いた目線で指揮するより、ミュージシャン・舞台監督として現場で直接指揮しながらメンバーとして参加する。それは自分を含むメンバーの顔を覚えやすくし、一定の印税が確保され、所属事務所の経費・交通費・宿泊代・公演活動に割くスケジュールの削減にもなった。他に所属している人数の多いバンドにかかる固定給との差額はレコーディング費用・衣装代に回している。アーティストの素材撮影のカメラマンはレコード会社の人材ではなく、アーティストの違ったセールスポイントを引き出すために広告代理店の人材を起用している。印刷される紙の材質を調べながら選んで、どんな機材で撮影して狙った通りの質感を出すかを一緒に練り上げていくメディアファクトリー刊「ザッピィ」2001年8月号「小室マニュアル2001 VOL.3『TKは作らないといけない』」p.46より。。等のネット配信による活動を主催していた。「もし小・中学生がECサイトにアクセスしたらどう感じるか」「如何にコストを下げて、時間短縮するか」「レコードからCDに切り替わった時、どんな状況だったか」を常に意識しながら、シミュレーションするように指導していた集英社刊「Bart」1995年10月23日号「『ジャングル』の次、インターネットの世界へ」pp.48-49より。。プロになりたいという志を持つアマチュアに対しては「夢を与える産業の裏側を公開しないのが美徳かというと、そんなことはない 音楽はヒットしないと意味がない だから僕に対してどんな感情を持ってもいいから、『とりあえずここから入ろう』と少しでも思って育ってくれたら嬉しい」という意向から楽曲の機材の選択・音作りの感覚・コード進行・メロディーのパターン・歌詞のイメージを戦略的にアピールし、他よりも制作時の裏話・苦労話・エピソードを積極的に公開している日経BP刊『日経エンタテインメント!』2017年4月号「小室哲哉『宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた』」pp.44-46より  業界人に対してもキャリアに関係なく「作曲する時点で側近のスタッフが過程・手法の全部を知って驚くようなエンターテイメント性がある」「昨日頼んだ仕事がもう出来上がっていて、その時点で相応のクオリティになっている」という定評を持ってくれるように心がけている角川書店刊『月刊カドカワ』1991年10月号「総力特集 TMN 独立する連帯」pp.22-31より。。1983年頃、他のミュージシャンのローディーをしていた久保に村田和人のバックバンドをしていた小室が渋谷LIVE INNの楽屋で「バンドやるんだけど、手伝ってよ」と声をかけたのが切っ掛けで以来小室と共にスタジオワーク・情報収集等を行うようになり、小室に引きずられる形で徐々に段階を踏んでプロデューサーが担当する作業に手を付けるようになった その関係は久保が「小室の一番弟子」と名乗る程の師弟関係を超えて生き、次第に久保が「小室ファミリー向けの曲は本当に小室さんと僕で作っている」「日本の電子楽器発展の歴史そのもの」と語るほどのブレーンであり、パートナーになった。二人の楽曲の作り方は様々でtrf・安室は二人で音色作りの段階から最終的なアレンジまで関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う。 2人の共通点について久保は「タイアップ先を先に決めて、それに合わせた楽曲を作って、最後にアーティストをはめていく制作手順」、木根尚登は「ファンと同じ所まで入り込んで、こちら側に引っ張っていく歌詞の作り方」を挙げている。1990年にXの日本武道館公演を見た小室がYOSHIKIに興味を持って、吉見佑子の紹介でスタジオを抜け出して麻布台のキャンティで対面した。その際、初対面であるにも関わらずYOSHIKIのインディーズで自分達のレコード会社を作ることから始めて、その戦略をソニーに持ち込んだことに対して、今まで所属する前から存在するレコード会社・マネジメント事務所内の契約書をどう利用するか考える所から仕事を始めていた小室が驚愕したこと・非情とも取れるサウンドプロデューサー気質にお互いが共感したことから、交流が始まる。 業界ではYOSHIKIと小室の関係をよく知る人からは「YOSHIKIの猛獣使い」と呼ばれている 後にピエール中野との対談の際に当時を振り返り、「彼が言うことを聞いたのはhideと僕ぐらいだったんじゃないかな まあ僕に関していえば、言うことを聞くっていうよりも、意見を聞いてくれるって感じだったけど 僕が出す意見に『いいよね』って耳を傾けてくれるというか V2のレコーディングでは、『小室君に任せるよ』っていうことが意外とあったので」「今でもすぐに連絡を取り合えて、なんでも遠慮なく言い合える関係」と語っている。エイベックス・グループの前身となる貸レコード店「友&愛」に勤務していた際、店にTMの「Get Wild」を借りに来る若年層が多かったので、個人的に興味を持った。 1991年、小室が本格的にエレクトロニック・ダンス・ミュージックの制作を開始した際、以前より顔見知りであった千葉龍平の紹介で松浦と対面。以後、2人は音楽制作での重要なブレーンとなる。主にタイアップ交渉・所属会社の壁を越えた撮影チーム結成に対するための融通、カラオケ画面でのアーティスト本人のPV映像の上映を実現するためのコーディネートに奔走していた。小室のプロデビュー時に所属していたレコード会社のスタジオに唯一置かれていたシンセサイザー。安岡力也の「ホタテのロックンロール」のアレンジ作業で使用された 「1974」「パノラマジック」のデモテープには、このKORG PolysixとRoland TR-808が同期された状態で使用された。trf1993年の「avex rave '93」まで正式メンバーとしてキーボードで参加。ダイナマイトマシーン山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎 (ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティー、TENSAW)、朝井泰生、今川勉 (ex ECHOES) もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。 TK-COZY-MST東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじと松本みつぐ・田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。
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