Images of イエメン内戦 (2015年-)

YemenPeople carry the body of a child they uncovered from under the rubble of houses destroyed by Saudi airstrikes near Sanaa Airport, Yemen, Thursday, March 26, 2015. Saudi Arabia launched airstrikes Thursday targeting military installations in Yemen held by Shiite rebels who were taking over a key port city in the country's south and had driven the embattled president to flee by sea, security officials said.

70年代から80年代にかけて駐在していたクウェートからよく出張で出かけていたイエメン。
当時は自由主義陣営の北イエメンと社会主義陣営の南イエメンの2国家に分断されていた。
ワタクシがビジネスで訪問していたのは北イエメンのほうで、首都はサナアだがビジネスは貿易港だったホデイダ訪問が多かった。
「イエメン」という国名を初めて耳にしたとき、ワタクシの中では「ファンタジックな響きのある国」だと思ったが、アメリカの若者の口癖だった「イエー!メーン!」(Yeh! men!!)を連想して「なんか楽しそうな国だなあ」と感じた。
しかし、地図を眺めてその未知・未開なる地域を考えると「地の果て」の国、イエーメンだ!と思えてならなかった。
駐在地クウェートからサウジアラビアのジェッダに飛び、そこでイエメン・エアに乗り換えて首都のサナアを目指す。
このイエメン・エアというのが全くのクセモノで、「いつ到着するのか?いつ出発するか?」予測困難なエアラインだった。
ある時ジェッダ国際空港でイエメン・エアを待っていた。
当初の待合ゲートナンバーで待っていたら珍しくイエメン・エアの機体が遠くに見えた。
「どうせ予定時間通りには飛ぶまい」とのんびりと構え、同僚と色んなおしゃべりをしていた。予定時間がきてもなんのアナウンスもなかったので「今日も1時間くらいの遅れだろう」とタカをくくっていた。
イエメン・エアの機体はアソコにいるのだから、と時々確認はしていた。
その後、おしゃべりをしていてフト滑走路を見ると、ナント!イエメン・エアの機体が消えていた!!
あわてて空港内警察官に聞いたところ、ワレワレの乗るべきイエメン・エアは当初の待合ゲートとは違うゲートから乗客が乗ってサナアに飛んでしまったのだった。
警察官はパスポート提示を求め、応じたところそのまま空港滞在者専用ルームに放り込まれてしまった。パスポートは返してくれず、行く先のない難民ばかりの部屋に閉じ込められた。パスポートの返還とその大部屋からの解放を求めたが、空港警察はガンとして拒否。ワレワレのパスポートは係官の引き出しにはいったままだった。
いつまでもソコに居ては空港難民になってしまうので、必死に考えた。
まずは、とにかくソノ難民大部屋から外に出ることが先決だ。
ソウダッ!砂漠の民はよそ者でも水だけは求められれば提供する、という性質をくすぐることを試してみよう!
「のどがカラカラで水を飲みに行きたい~」と訴えると、いとも簡単に「行ってこい」と閉じ込め部屋から一時外に出られた。
水飲み場を探すフリして空港内を走り回った。イエメン・エアのグランドスタッフを探すのだ。運よく彼らを見つけて、事情説明。これまた運よく数時間後にサナア行きがもう一便あるとのことだった。グランドスタッフが難民部屋まで迎えに来てもらえるように頼み込んだ。
半信半疑で彼らの来ることを信じて待った。
はたして彼らは約束通りに難民部屋に来てくれたのだった!
パスポートは無事に手元に戻り、無事に夜のサナア行き便に乗れたのでした。
同僚とともに「アア~イエメン・エアがホントに居てるウ~ヤッタア、ヤッタア!」とゲート前で叫んでいたらイエメイニアのスタッフは「シーッ!シーッ!」っと指を口に当てて静かにするように指示をした。
どうもワレワレのこれから乗るイエメニア便はどうもジェッダ国際空港からデパートできる正式な便ではないようだ。
それが証拠にゲートにはなんの便名表示がなかった。
秘密の便で夜の闇に紛れてこっそりとその便はジェッダを後にしてサナアに飛び立ったのだった。
かくしてやっとの思いでサナアまで行きついた、というアンビリバボな事件もあった。
このイエメン行き、イエメン入国時などには数々のアンビリバボなお話しがありました。アンビリバボーな70年代~80年代当時のイエメンでした。
さほどイエメンは当時では「地の果ての響き」のあるお国であったのです。