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城郭探訪歴史研究・報告 佐々木六角氏の家紋考察 佐々木六角氏(以下六角氏)の家紋は、現在沙沙貴神社の神紋である「七ツ割・平四ツ目結」と認識していた。しかし、平成22年度、第2回見学会において、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」である、との提案がなされた。さらに、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課が主催されている連続講座「近江の城郭‐六角VS織田‐」の各回修了証でも「隅立て四ツ目結」が使用されているのでどちらが正しいかを考察してみた。 隅立て四ツ目結 平四ツ目結結論としては、確実な史料がないため断言はできないが、「隅立て四ツ目結」の可能性もあると思われる。「目結」のユイはもともと「結ぶ」の意味である。また、「目結」のメは「間」のことで、タテ、ヨコの交線の間にできた空間、即ち穴である。布地をつまみ、糸を結んで絞り染めにすると回のような目ができる。このカタチを散らしたり、並べたりしたものが、「〇〇目結」と呼ばれている。目結を家紋として用いたのは、「源平盛衰記」の義経院参の条に、佐々木高綱が三ツ目結の直垂(ヒタタレ)を着ていたとある。その後、目結紋が近江源氏の代表家紋になっていることをみると、模様から家紋に定着していたのではなかろうか。もっとも、この模様は鎌倉時代には流行していたから家紋に採用したのは佐々木氏だけではなかった。「蒙古襲来絵詞」によると、九州の武士竹崎氏が「三ツ目結に吉文字」、少弐氏が「四ツ目結」を用いている。室町期の『見聞諸家紋』(室町八代将軍・足利義政の頃にまとめられた家紋集で、『永正幕紋』『足利幕紋』などとも呼ばれている。)には佐々木氏は隅立て四ツ目結とある。 これのみを見ると、六角氏の家紋は「隅立て四ツ目結」であったといえる。ところがこの図の傍書きに、宇多源氏、「佐々木大膳大夫」「入道生観」とある。「大膳大夫」は官位名で、六角氏の中でも「満綱」(1401~1445)、「高頼」(1462~1520)が名乗っているが、「入道生観」を名乗るのは佐々木家の中でも京極持清(1417~1470)で官位は大膳大夫である。このことからは、京極氏の家紋が隅立て四ツ目結ということになる。『見聞諸家紋』の著された足利義政の在位期間(1449~1473)からも京極持清の家紋の可能性は高いといえる。京極持清は応仁・文明の乱では東軍に属し、その功績が認められ、文明元年に近江守護職に補任された。一方で、佐々木京極氏は江戸時代まで続く家柄で、その家紋は「平四ツ目結」であることは明確である。六角氏や京極氏は都におけるそれぞれの屋敷地名から起こった名称であり、京極家ではあるが、あくまでも佐々木京極家であり佐々木氏として見なされていたのではなかろうか。そうであれば、京極持清の守護職も名目上は佐々木氏としての守護職といえる。この時点では、六角氏、京極氏ともに隅立て四ツ目結であったことも考えられる。六角氏滅亡後に、京極家が平四ツ目結を家紋としたすれば辻褄が合う。京極家が江戸時代まで大名として存続し、家紋は平四ツ目結であることは史料や丸亀城の瓦からも証明されている。反面、六角氏が滅びたため家紋が隅立て四ツ目結であったという結論は出せないが、可能性はゼロとは言えない。では、なぜ沙沙貴神社の神紋が「七ツ割平四ツ目結」なのかという疑問が残る。『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』で佐々木哲氏は、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたと考えられます。とされている。また同誌では上杉本洛中洛外図で見られる四つ目結は、隅立てです。(下図)とも描かれている。 上杉本 洛中洛外図これが正しいとすれば洛中洛外図が描かれたとされている永正年間から永禄年間当時は四つ目結は隅立てが使われていて、両家とも佐々木氏として隅立て四ツ目結を用いていたと推定される。従って、この時期おいては佐々木氏両家とも家紋は「隅立て四ツ目結」であり、その後、六角氏は「隅立て」に、京極家は「平」となった可能性があるといえる。平成22年度、第2回見学会において、佐々木六角氏の家紋は「平四ツ目結」と申しましたが、「隅立て四ツ目結」であった可能性があると訂正させていただく。なお、これに関するご意見などがあればご教示をお願いします。参考資料丹羽基一『家紋大図鑑』 1971 秋田書店鈴木亨 『家紋で読み解く日本の歴史』 2003 学習研究社佐々木哲『系譜伝承論‐佐々木六角氏系図の研究』 2004 思文閣出版 (日吉)