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関東鉄道常総線下妻駅から東へ徒歩5分、多賀谷氏居城の下妻城(しもづまじょう、茨城県下妻市本城町)を訪問しました。
多賀谷氏は武蔵国騎西の多賀谷郷豪族を出自とし、武蔵七党のうち野与党あるいは村山党の後衛とも伝えられますが定かではありません。何れにせよ多賀谷家政(たがや・いえまさ)が結城直光(ゆうき・なおみつ)の家人になったのが多賀谷氏の始まりと伝えられています。
嘉吉元年(1441)の結城合戦で結城城は10ヶ月の攻防の末落城、結城氏朝・持朝親子とその一族は自刃、多賀谷氏は結城氏の末子を救出しその後の結城氏再興に忠臣ぶりを発揮します。
鎌倉公方足利氏と管領の上杉氏の争い(享徳の乱)では主家結城氏に従い公方側に与し高経(たかつね)は上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を討ちその功により当地下妻三十三郷を与えられます。
多賀谷氏は結城氏の重臣として「結城四天王」の一角としての地位を占めますが所領を広げる中でしだいに結城氏からの独立色を強め、ついに常陸太田の佐竹氏と同盟し、他の四天王領を次々と攻めて支配下に収めついに20万石に及ぶ支配地を得ます。
天正18年(1590)小田原の役で多賀谷重経(たがや・しげつね)は豊臣秀吉の石垣山城に参陣し本領である下妻六万石を安堵されますが秀吉からは結城氏の臣下として扱われます。
文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵では重経は病気と称し参陣せず、佐竹氏から迎えた養子の宣家・弟重康を肥前名護屋城に派遣させますが秀吉の叱責を受けます。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは佐竹氏出身の藩主宣家は佐竹氏と共に東軍に参陣しなかったため、徳川家康より佐竹義宣(さたけ・よしのり)の出羽国へ改易に伴い宣家も佐竹氏に従い下妻を去ることになります。
現地で入手したパンフレット「下妻歴史散歩」に「戦国武将・多賀谷氏について」の項では下記の通り記載されています。
「下妻多賀谷氏初代氏家は、結城合戦の際に結城氏朝の末子(結城成朝)を抱いて城を逃れ、足利成氏の鎌倉公方就任後は結城家の再興に奔走するなど主家に忠節を尽くしました。
氏家は鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立の中で、享徳3年(1454)結城成朝に従い憲忠を討ち、その功により成氏より河内郡を賜りました。また氏家は寛政2年(1461)多賀谷城の築城を行っています。続いて家植の代には、近隣地域をその支配下に治め、戦国大名として自立する足る地盤を築きました。その後、家重、重政、政経、重経らのもと、西は鬼怒川右岸、東は桜川流域、南は牛久沼河畔、北西は結城氏領と拮抗するまでに領土を拡大しました。
しかし、重経の時代、豊臣秀吉より結城氏に属することを命ぜられましたがそれを快しとせず、また朝鮮出兵にも病と称して出陣しませんでした。そのため、文禄の検地では、6万石の領有のみしか認められず、さらには、関ケ原の戦いでは、東軍に参陣しなかったため、慶長6年(1601)改易されたとされ、多賀谷氏は下妻の地を去ることになりました。」