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戦国時代に活躍した太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)が仕えた扇谷上杉氏が相模守護となりその本拠を糟屋に置いたといわれる上杉居館(うえすぎやかた、神奈川県伊勢原市上粕屋)を訪問しました。
『文明18年(1486)7月26日、太田道灌は相模糟屋にあった上杉氏の「府第(ふてい)」に招かれ、主家定正(さだまさ、1443~1494)により殺されてしまいました。風呂で襲われ「当方滅亡」と叫び、絶命したといいます。資料的には、当時の詩僧・万里集九(ばんりしゅうく、1428~没年不詳)が記した「相陽糟屋の府第」とあるのみで、後に「上杉館」あるいは「糟屋館」と呼ぶようになりました。
鎌倉幕府が倒れると、伊勢原市域を中心に広がっていた糟屋荘と呼ばれる荘園は、倒幕に功があった足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)に与えられました。足利尊氏の母は上杉氏の出身でした。
足利尊氏は京都の幕府とは別に、鎌倉に東国を支配するための「鎌倉府」を置きました。この鎌倉府には関東(鎌倉)公方と呼ばれる足利氏がいて、東国の武士を率いていました。上杉氏はこの関東公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる地位に就きました。
上杉氏は大きく山内(やまのうち)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の四家に分かれていましたが、やがて、犬懸、宅間は没落し、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の二家が残りました。
扇谷上杉持朝(もちとも、1416~1467)は、15世紀の半ばに相模守護になり、相模守護の役所=守護所を糟屋に置いたと考えられます。後に扇谷上杉氏は、河越城(埼玉県川越市)を築き、拠点を移しましたが、糟屋の館は残されていたようです。
この館がいつ頃まで使われたのかはわかりませんが、永正9年(1512)に岡崎城が北条早雲により落城します。これ以前に扇谷上杉氏はこの糟谷を離れたと思われます。
扇谷上杉氏の館跡の所在は不明とされていましたが、明治以降、上粕屋に残る立原(たてはら)、的場(まとば)、馬防口(ませぐち)といった地名から、現在、産業能率大学がある台地が上杉館とされたようです。
昭和50年から51年にかけて産業能率大学建設に先立ち実施された発掘調査では、館としての明確な遺構は発見されませんでした。調査報告書では、大学のある場所の東側に存在しているのではないかと推定しています。
台地は東西に延び、南・北・東を堀(鈴川・渋田川の旧河道)に囲まれています。東西1600m、南北700mもある台地ですが、上述のように、この台地の中程から東側が館跡と推定されています。周囲の堀の幅は最大100mもある広大な館跡です。
なお、「伊勢原市史 通史編 先史・古代・中世」では、「道灌殺害時より、少し時代の下った戦国期には、上粕屋一帯は「秋山郷」と呼ばれており、.「糟屋」の地名で呼ばれたのは、下糟屋地域一帯に過ぎなかった」記述されています』(伊勢原市文化財HPより)
2022年5月24日追記
現地に建てられた「上杉定正粕屋の館跡」と題した説明板には次の通り記載されています。
『本学の校地は、室町時代に、関東地方で勢力をふるった上杉定正(1443~1494)の「粕谷の館」の址と言い伝えられている。校地およびその付近をタテハラ(立原)と呼んでいるが、これも館(タテ)のあった所からきている地名であろうといわれている。
校舎建設に先立つ発掘調査において、館の一部と思われる、台地を東西に貫く大きな溝があることが明らかになり、又当時のものと思われる堀立柱の建物の址も発見された。しかし、これが何の建物かは明らかに出来なかった。
上杉定正は扇谷上杉氏である。上杉氏は鎌倉府の執事として又越後・上野・伊豆の守護にmぽ補せられた名家であり、その分流も多い。なかでも鎌倉における居館の所在地の名をつけた扇谷・山内の二家はは有名である。定正の頃には河越城(埼玉県川越市)がその本拠地であったといわれるが、大庭城(神奈川県藤沢市)にも居住したこともあり、又粕屋の館にもしばしばたちより風流を楽しんだともいわれている。定正が勢力をふるった背景には、その家臣太田道灌の力があった。太田道灌は江戸城をはじめ、川越・岩槻などの諸城をつくり、又軍略に巧みな名将として知られている。近臣の讒言にあって、定正のために誅殺されるのであるが、その舞台となったのが、この粕屋の館であるという。道灌の墓は、本学の近くの洞昌院にある。
昭和54年4月
産 業 能 率 大 学 』