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歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪ 久良岐のよし タグ:拉麺 本物の蘭州“拉麺”を食べれる中国蘭州牛肉ラーメン 国壱麺・・・伊勢佐木長者町。【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その①最乗寺~寒田神社~なんつっ亭編・・・南足柄市と秦野市の紅葉の名所と史跡。[第2部:海老名後編] 休日雑記2017年04月22日の訪問先…【海老名】有鹿神社~総持院~国分寺跡~海老名市温故館~中村屋~【綾瀬】有馬の春楡~神崎遺跡~【藤沢】飯田牧場~花應院[第1部:海老名前編] 休日雑記2017年04月22日の訪問先…【海老名】有鹿神社本宮~中宮~国分寺跡~海老名市温故館~中村屋~【綾瀬】有馬の春楡~神崎遺跡~【藤沢】飯田牧場~花應院2017年04月22日、朝から有鹿神社の宮司様の講義を聞きに海老名市を訪れて、講義受講後は宮司様から有鹿神社の施設や鳩川と相模川の合流地点の旧境内地、そして鎌倉御家人の海老名氏の城館址の敷石だった現境内本殿前の敷石の一枚の解説や本殿内部の彫刻や天井画を案内して頂き充実した時間を過ごす事が出来た。宮司様に御礼を申し上げて神社を後にし隣の江戸時代までの有鹿神社別当寺だった総持院に初参拝しから少し移動して有鹿神社中宮を御参りした。そして海老名市が誇る遺産、相模国の国分寺跡に移動した。国分寺も旧境内地は歴史遺跡として保護されているのだが、歴史に興味が無い人からすると基壇が有るのも「何もないですよ~」と言ってしまうような❝野原❞と認識されているらしい。まぁ、城跡もそうなのだけれど、文化や史跡に思いを馳せる事の無い現世の物欲と性欲にしか興味なく生きている人達にとっては、❝目に見える金❞と❝ビル(建築物)❞等の❝動産❞と❝不動産❞としての価値しか興味が無いんだろう。そして多分、異性も美人かブスかにしか興味が無いんだろうな。たまたま数年前に話した海老名の人から「何もない」と言われていたが、来てみたらとても立派な基壇や礎石が発掘保存されていた。所で、国分寺跡の前には海老名市温故館と言う小規模ながらとても熱心に解説を行う学芸員さんや職員さんのいる郷土歴史博物館が在る。こちらで昔の相模国国分寺の様子を再現した立派な模型等も見る事が出来るので、温故館と国分寺跡は両方合わせて見学するのが個人的には御薦めだ。海老名市が成立する前の昔の海老名村役場の建物を利用した施設で、国分寺跡の旧境内地に建っていたのだが国分寺跡が史跡認定されたので現在地に移築された。この日、当初の予定では温故館を見てから国分寺跡を散策しようと思ったのだが、相模原市からの団体客が来訪中だったので先に国分寺跡を見学する事にした。国分寺跡にはちゃんと昔の伽藍が有った時代の名残りが発掘されていて、御覧の通り回廊の礎石なんかも発掘保護されている。この礎石の上に柱が組まれ、昔は立派な回廊が堂宇を取り囲んでいたのだろう。少し順番はあべこべに成るが、温故館に展示されている国分寺の模型を見ると、やはり回廊に囲まれているのが良く解る。この看板を探しても、そこに大まかな事が理解出来る解説と史跡の全容が記されている。この国分寺跡に限らず歴史史跡を回る時は、この様な看板が有れば必ず精読される事をお勧めする。読めば自分の居る場所に古代何が有ったか、そしてどんな出来事が有り、どんな偉人達と関わりが有ったか必ず書かれているので地元の人なら郷里の誇りにも成る事だろう。この手の看板を読むのに1分も時間はかからない、その1分で郷土に誇りを持てたり来訪者なら意義を知れるのは実に素晴らしい事なんじゃないだろうか?とは言え、確かに地元に人に只の草原と言われても「う~ん長閑で気持ちの良い風景だ」と同意してしまいたくなるのも事実(笑)。色んな意味で良い場所だとは思う。説明書きはそこかしこに設置して有り、非常に親切な写真と文字の両方解説で助かる。これだと小生の様な馬鹿でも理解しやすい。所で、この絵図の仏塔は現代の個人の御墓で墓所に建てる卒塔婆の元に成った施設だ。本来の仏教寺院は奈良~平安時代では国営や豪族貴族の直営だった場所が殆どで公立だった。だから規模も大きく、仏塔が建てられる場合が多かった。そして、この塔の本来の目的は「仏舎利(ぶっしゃり=御釈迦様の亡骸、ないし御寺の被葬者の亡骸)」を保存する場所だったのだが、現代ではその機能を成さなくなり建築様式としてだけ残っている。昔は御寺その物が個人(豪族貴族)の御廟所=墓所としての機能も果たしていた訳だ。つまり一人一寺みたいな勢い。だから中世でも社会的地位の高い仏教徒の戒名にはその名残を見る事が出来て、〇〇院や〇〇寺と戒名に御寺其の物の名前が入る人が多くいた。織田信長公なら「総見院殿大相国一品泰巌大居士」だったり横浜を開港した井伊直弼公だったら「宗觀院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覺翁大居士」の様に、生前の身分が高位の人物には~院と御寺の院号が付き敬称の「殿」が続く。無論、現代では一般人には付かない戒名な訳だが、昔は御寺そのものが故人一人々々の供養の為に建てられた文字通り「菩提寺(ぼだいじ)」だった事が良く解る。しかし、国分寺は国家鎮護の為の寺院なので当然、誰かの為に作られた場所ではなく祈祷所の様な場所だったのだろう。そして国営なので壮麗な装飾も施されていた様だ。上の解説によれば塔の頂点部に飾られる塔相輪部は美しい金属製だった様だ。基壇が修復されて今も保存されている。基壇の規模からも当時の立派な塔の規模を窺い知る事が出来る訳だ。こういった仏教建築技術が、後の神社仏閣の建築技術発展に繋がり、そして壮麗な城郭建築へと発展して行った訳だ。そう言う意味で仏教の伝来は日本文化の発展の礎の一端を担った事は間違いない。ここでは常時20名程度の仏僧が当時は常駐していたので、彼らの宿舎だった僧坊も発掘されている。この通り、発掘された遺構を元に彼らの生活した建築物の復元予想図も書かれていたりする。とても丁寧な展示方法で海老名市教育委員会の仕事は素晴らしいと思う。このコンクリに発掘された柱の穴の跡がマーキングされていて、当時の様子を知る事が出来る。まぁ、公務員なのに長屋住まいでプライベートも何も無かった訳だが、当時の和尚さん達は滅私で国民の安寧を祈願して下さっていた訳だ。今の和尚様達の中に、果たしてどれだけの人が国民の安寧を当時の国分寺の和尚様達の様に考えている人がいるかと思うと、色々と考えるものが有る。まぁ、当時の和尚様達は俗世を捨てているので現世の政治や商業活動には関わらなず、どちらかと言うと神仏共に大切にされていたので個人の修行だけでなく世間の平和を願う事も仕事だった訳で、その代表的な存在が海老名市の国分寺を含めた日本全国1国に一つづつ建てられた国分寺だった。だから、他府県にも国分の地名や国分寺跡が残っている訳だ。一頻り国分寺跡を見学してから、そろそろ頃合いかなと思い海老名市温故館に移動。何ともレトロな建物だが、実際に古い村役場の建物であり建築文化財なので、横浜の山手地区の洋館の様な佇(たたず)まいなんだろう。とても可愛い建物だ。ここは学芸員さんや職員さんがとても熱心で、解説を御願いすると来訪者に親切に展示物の説明をしてくれる。そして何より嬉しい事に市営で入館料が無料なのだ!歴史オタクにとってはとても居心地の良い場所(笑)。展示物も出土品の現物や複製品、それに加えて海老名市周辺の古墳群の位置関係と地形を再現した模型、奈良時代の国分寺や条里制で造営された相模国府推定範囲の写真説明等々、「意味が解って見れる人には有意義な場所」な訳だ。神奈川県下の各自治体の教師は、中学生の歴史教科書を精読してからここに来て、もう一度勉強しなおしてから有鹿神社本宮と相模原市の有鹿神社奥宮と勝坂遺跡を訪問するべきだと思う。ついでに寒川神社で八方除けの祈願したり、前鳥神社にも行って仁徳天皇の弟皇子で日本最初の学問を導入した菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子にも御参りしてきたらいいんじゃないかな。もっとも地方公務員の学校教師の中には共産主義者が多く唯物論者なので日本の伝統や文化や神仏に対する信仰を破壊対象として認識している極左も多いので、到底、神話と考古学が交わる整合性を認めたくない輩も多い事だろうが。小生もこの写真と似たデザインの土器の破片を子供の頃に近所の宅地開発の時に表面採取して保管している。思えば近所に歴史遺跡が有ったり、鎌倉も近くて中学生の頃に電車や自転車で気軽に遊びに行けたのも歴史好きに成る要因だったかも知れない。小~中学生の頃は仲間達とチャリンコで由比ヶ浜に行き、イチャイチャしているカップルの横でわざと大声で地味に棒倒しを異様な盛り上がりでやってデートを邪魔したりする意味不明な遊びをしていた。全くもって迷惑なクソガキだった(笑)。展示物の話に戻ると、昔の女の人もオシャレに余念が無かった事が解ったりする。耳輪。こう言うの見てるとやはり日本人の先住民(縄文文化の人々)は朝鮮半島渡来では無くて、南方系のベトナム~中国大陸の呉や越~台湾や琉球民族と同じ海洋民族文化なんだなと解る。実際、琉球語には古事記に登場する古語が昔のままの意味で使われていたりするし。琉球語で「ひら」は「上り坂」の意味、「坂」は「下り坂」の意味で、本来の「黄泉平坂」は「黄泉平坂(よもつひらさか)」ではなくて「黄(き)泉(いみず)平坂(ひらさか)」となり…黄(き)=紀国(きのくに)=紀伊国泉(いずみ)=泉国(いずみこく)=和泉国平坂=峠…と成る訳だ。この峠も推定出来る場所が有る。要するに、天皇家の古墳は河内国と奈良近辺に大量に現存するが、奈良や河内を境にして、南部の和泉国や紀伊国や伊勢国や志摩国は初期の王族にとって反乱勢力の根拠地だった訳だ。元々、伊勢神宮以前の神宮も丹波国に在ったのは有名な話し。古代の大和朝廷の国境は❝鈴鹿関❞❝逢坂関❞そして真田幸村が歩いた❝紀見(きみ) 峠❞の事だろう。紀見峠も元々は「黄泉峠」と書いて発音も❝黄泉(きみ)峠❞だったのかも知れない。紀見峠を越えると熊野信仰、つまり山岳や自然湧水池を信仰対象にした縄文文化系の先住民族の縄文文化圏だったんだろう。そして、その首府が今の熊野大社や那智大社の辺りだったはずだ。「熊野」は「熊襲」と無関係ではないだろう。伊邪那岐(いざなぎ)の神様は、伊邪那美(いざなみ)の神様と夫婦に成って国を作る、これは渡来文化と縄文文化の融合の象徴を起源にした弥生時代つまり稲作や豪族集団の始まりを伝える神話だろう。そして最初に日本に渡来文化を齎したのは呉太伯、つまり呉王の子孫だろう。呉の滅亡は西暦紀元前500年頃の話しで、日本神話とも近い上に宮崎と並んで高千穂の地名の残る鹿児島県には呉太伯神社も存在している。呉王の家系は更に周王まで遡(さかのぼ)る事も出来る。伊邪那美の神様が黄泉平坂を超えて行った先は、縄文文化の熊野地方だったんじゃないだろうか。そして、そこは本来の姫神様の一族の治めた土地で、実家に帰って縄文文化に戻って生活していたと言う話しなんじゃないかと思う。本居宣長に死後の世界と訳されたであろう縄文文化に帰った伊邪那美は古来の文化に従って刺青(いれずみ)を施して歯を抜歯した筈だから、渡来文化を導入して刺青の習慣など無かった伊邪那岐の神様からすれば、元奥さんの伊邪那美の神様が縄文人よろしく刺青して歯が何本も無くなってたら化け物に見えても仕方なかったんじゃないかと思う。やがて熊襲は邪馬台国の元に成った豪族集団に段々と吸収されて行き初期の邪馬台国勢力に融和した筈だ。これを成し遂げたのは天照大神と素戔嗚尊に神格化された古代の斎王と王だったんだろう。日本は縄文文化と渡来文化を取り入れた弥生文化が合わさって出来た国、そして更に勢力圏の拡大にともなって稲作が普及して行った訳だ。更に漢帝国との国交によって青銅器やガラス製品の鋳造技術の技術移転を受けて、武具や装飾品が金属製品に成っていき古墳時代が始まり、その頃に再び倭国大乱と成って邪馬台国に抵抗したのが伊勢都彦=建御名方神だろう。そして、今の伊勢地方を根拠地にした伊勢都彦の勢力を諏訪に追いやった勢力が巫女の卑弥呼と統治者の弟だったのだろう。その卑弥呼は恐らく倭姫で弟は景行天皇だったりすののかも知れない。小生の住む神奈川県の旧郡制における橘樹(たちばな)郡~久良岐(くらき=久良=倉巣)郡~御浦(みうら=三浦)郡~鎌倉郡~高座(たかくら)郡~愛甲(あいこう)郡~大住(おおすみ)郡~餘綾(ゆるぎ=淘綾)郡~足柄(足上/足下)郡の古社には日本武尊と雄略天皇に関する起源を持つ神社が実に多い。因みに小生は倭建は古代の邪馬台国大将軍の官職名だと思っている。そして景行天皇御本人が初代の倭建、二代目が皇子の倭建=日本武尊だったら歴史と神話に整合性が出るんじゃないかと思っている。日本武尊伝承は西暦100年代初頭と走水神社の神話では伝わっているが、古代の文字の無かった時代の話なので誤差が有ると考えれば三国志の時代とほぼ重なる。つまり卑弥呼の時代だな。九州で熊襲建(くまそたける)を討ったのは景行天皇だろう。関東に東征したのは倭建(ヤマトタケル=景行天皇の皇子)だろう。更に雄略天皇も最後の倭建で武蔵国造乱に関与したんじゃないかと推測している。この推測は南関東の延喜式内社と式外社を回り御祭神の種類を見て廻り伝承を繋ぎ合わせた結果の個人的な推測なので、勿論、神学でも歴史学でも「全く価値の無い個人的な意見(笑)」でしかない。だから日本神話をそのまま大切にする宮司様達は気にしなくて良いし、物質的な証拠しか採用出来ない歴史学者も小生の❝感触❞は小馬鹿にして置けば良い。ただ小生は多くの神社や聖地が起源の仏閣を巡り伝承を繋ぎ合わせ、現実の歴史史跡を見た上で状況的に「そうなんじゃないかなぁ~」と感じてるだけ。感じてるだけだから学術的価値なんか有りゃしない訳だ(笑)まぁ、そんな事をこの高座郡(たかくらぐん=こうざぐん)と呼ばれた聖地の多い地方の出土品を温故館で見ながら考える機会にも成ったりする。小さい郷土資料館ながら展示内容は意義深く、石鏃(せきぞく)から青銅製の鏃(やじり)までの武器の変遷も見る事が出来る。そして装飾品も石や土器から次第に金属器やガラス製品が増えていった過程も見る事が出来る。そして古墳時代の豪族(王)クラスの武装が立派な金属製の太刀へと変化し、その様相も中国の三国時代の物とは既に違う独自の形に発展している事も解る。だいたい、神奈川県内で古墳~奈良時代の郡衙が置かれたと思われる場所の近くに有る延喜式内社の由緒ある神社の広大な旧境内地や傍には古墳が有って、副葬品から豪族の長しか装備出来なかった鉄剣や青銅製の鎧等が出土している。三之宮比々多神社なんかも有鹿神社本宮や奥宮の周辺並に縄文時代~古墳時代の祭祀場や古墳と副葬品が大量に発掘されていたりする。まぁ、そんな展示が温故館の1Fには多くあり、そして大化の改新の後の天智天皇以降の相模国国分寺や国府に関する展示も有る訳だ。温故館の2Fは中世~近世~近代の展示物が置かれている。江戸時代~近代の農機具。庶民の服装。明治の廃仏毀釈と神仏分離令の悪影響で衰退し廃社や廃寺に成った神社仏閣から移し保護されている仏様や神社の扁額等が保管されていた。本当に海老名市の教育委員会は意識が高いと思う。横浜市は左翼系の政治家と建築利権に結びついた政治家、そしてそれらの何れかと思想を同じくする教職員が力が強いせいで、宗教を文化と認識せずに「物」として扱ったり不保護のまま消滅させたりしてしまう。神奈川県庁と言う組織も駄目な所だし横浜市もダメ。それ以外の自治体はとても宗教関連の遺物も文化として大切にし、そしてソレを物として扱わずに人から信仰された大切な物と言う認識を持っている場所が多い。まぁ、神奈川県や横浜の教育委員会以外に他にも最近は歴史史跡や宗教関連史跡の保護でダメな自治体の教育委員会も幾つか有るんだけどな。取り合えず、綾瀬市、海老名市、小田原市は比較的素晴らしい活動をしている教育委員会関連の職員が多い。文化財保護法の設置を最後まで拒んだ横浜市は一番駄目。さて、温故館で学芸員さんに丁寧に色々と解説して頂いて古代の海老名郷の国府の条里制の跡と思われる場所の航空写真等も見学し新しく学習した事も有り、有意義な時間を過ごして温故館を後にした。次に向かったのが今まで中々行きたくて行く機会の無かった日本を代表する拉麵店の一つである「中村屋」だった。この店の店主は「天空落とし」と言う拉麺の湯切りのスタイルでも有名なイケメン社長で、ニューウェーブ世代の拉麺店では一番の有名な社長なのだ。そして拉麺を「料理」に昇華させた偉人の一人でもある。和食料理屋の様な店構え。元々は高座渋谷に本店が在り、ここは高級志向のコンセプトで開いた支店だった。しかし高座渋谷駅周辺の再開発で海老名店に本店機能を移転した訳だ。現在は東京で大山阿夫利神社の名を冠した「阿夫利」と言う有名店も経営してらっしゃる。とにかく拉麺フリークだけなく「料理家も唸らせる拉麺」として有名だったので、ずっと来たいと思っていたが拉麺を食べるだけに来るには遠すぎた。有鹿神社様と御縁が出来たからこそ、海老名市街の一般道を走り回る機会が出来て、やっと来る理由にも成った。海外でも紹介されたらしい。店のTwitterアカウントが「天空落とし」に成っていた(笑)。店員さんの許可を頂いて店内の様子も撮影させて頂けた。何となくアメリカの無機質に洒落たスタイルの内装だった。丸でcafeの様な印象。以前の店舗の店先に掛かっていた額が店内に装飾品として展示されていた。これも良い雰囲気を演出している。天井のレトロな扇風機も良い。横浜の山下公園や大桟橋界隈のアメリカンスタイルのcafeと同じ様な内装でデートで来てもおかしくない拉麺店に成っていた。待ちに待った拉麺登場!この日は「特中村屋」と言う拉麺の塩味に味玉と海苔増しのトッピングを注文した。食べてビックリしたのはスープは透き通っていてアッサリしながらコクも有り、旨味を凄く感じられ今まで食べたどの拉麺よりも美味しい!神奈川県には日本を代表するラーメン屋が実に4軒も有る。拉麺の神様の佐野実さんの醤油ラーメンの名店、支那そばや家系ラーメンの総本山の吉村家九州ラーメンの名店なんつっ亭そして神奈川端麗系の創始者である中村社長の中村屋だ。この中村屋、美味いのはスープと麺だけではない。叉焼が凄い!肉厚なのだが物凄く肉質が良く柔らかい上に、その味は鎌倉ハムやなんかの贈答用の高級ハムを更に美味しくして拉麺の香りとマッチングする様にした感じの他店では絶対に食べる事の出来ない凄い叉焼だった!本当、この拉麺を食べれて良かった。海老名市訪問の後にも、この日の予定は幾つか有ったのだが…有鹿神社で宮司様に親切にして頂いたり著書を拝領したり、人生で一番美味い拉麺に中村屋で出会えて、今年上半期で三本指に入る素晴らしい日に既に成った。有鹿神社には又、小生の休日と祭事の曜日さえ合えば絶対に訪問するだろう。そして、その時は又、絶対に中村屋の拉麺を食べに来ようと思った。そんな素晴らしい午前中~昼の時間を過ごして海老名市を後した…次回、綾瀬市~藤沢市編に続く…神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。魁力屋と言う京都ラーメンの店が川崎にも有りますよ〜。 久良岐のよし
荘園公領制の仕組み - 世界の歴史まっぷ (更新) #無料ダウンロード #荘園 #日本史 初期荘園の多くは、律令国家から租税の免除(不輸)を認められなかったこともあって、経営が不安定で、国家の支配機構に依存していた面もあり、9世紀には衰退した。 Quotations, Knowledge, Diagram, Quotes, Quote, Shut Up Quotes, Facts