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![No.340 対馬・対馬改No.340 対馬 法被modeID:433/「令和」掛け軸ID:425/「対馬」の掛け軸ID:423/海防艦の雛飾りNo.340 対馬 桃の節句mode お雛様スタイルNo.340 対馬 【私服mode】ID:399/択捉型の飾り棚ID:382/「択捉型海防艦」掛け軸No.340 対馬 【瑞雲祭り】mode](https://blog-imgs-131-origin.fc2.com/k/c/w/kcwiki/No340_20190930_0_CD.jpg)
No.340 対馬・対馬改No.340 対馬 法被modeID:433/「令和」掛け軸ID:425/「対馬」の掛け軸ID:423/海防艦の雛飾りNo.340 対馬 桃の節句mode お雛様スタイルNo.340 対馬 【私服mode】ID:399/択捉型の飾り棚ID:382/「択捉型海防艦」掛け軸No.340 対馬 【瑞雲祭り】mode
![平安時代、交野ヶ原の郡津(こうず)に交野郡の郡司(ぐんじ)・宮道弥益(みやじいやます、びえき)の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕池(ながぶちいけ)」に身を投げてしまったと言う悲恋の伝説が残っている。源氏物語、帚木(ははきぎ)の巻で紫式部が光源氏よりも派手で有名なプレイボーイだとしている交野少将(かたののしょうしょう)が交野に鷹狩に来た時、交野郡司(現代の市長)の家に泊まり、その娘と一夜を契った。その夜以来娘は交野少将に心を奪われ、少将恋しさで思い悩みつつ再び逢う日を待ちわびる。だが少将は再び娘を訪ねてくることがなく、自分が片思いだということを知って絶望した姫は、「 かつきゆるうき身の沫(あわ)と成ぬとも誰かはとはん跡(あと)の白浪」と泡のようにはかなく消えてゆくわが身のむなしさと恨みを辞世の歌に残し、交野少将に渡すように頼んで身を投げたと言う。 その長渕池(ながぶちいけ)は、現在は埋め立てられ、昔の葦(あし)の茂った湿田や沼池の景観は見られない。 松塚会館前の「長渕池・ながぶちいけ」跡には交野郡の郡司(ぐんじ)の娘が交野少将に失恋して飛込んだといわれる伝説と歌を記載した記念碑が建てられているが、男女の悲恋はいつの世でも変わらない。交野少将(かたののしょうしょう)はどんな人物だったのだろうか。「交野少将物語」という「源氏物語」 に先行する恋愛小説があったが現在は原本が残っていないそうで残念だ。だが一般に在原業平(ありわら の なりひら825−880年)や「交野少将」とよばれていた藤原季縄(ふじわら すえなわ)がモデルと言われている。交野に良く訪れていた有名なプレイボーイ・在原業平が「交野少将」であったなら納得できる。「平安時代の市川海老蔵」といったところだろうか。紫式部も源氏物語の「光の君」の人物像に交野少将のイメージを重ねているのではないかと思われるが、市川海老蔵が「源氏物語」の光の君を演じているのは適役だろう。私は「交野少将物語」は「源氏物語」創作への影響を与えたと想像している。明石(あかし)の巻で 播磨守・明石入道(あかしのにゅうどう)が都の貴人と結婚させようと田舎者の一人娘(のちの明石の御方)を、「いい縁がないのなら死んでしまえ」と厳しく諭しながら源氏に差し出した話は地方豪族の交野郡司・宮道弥益(みやじびえき)が出世を願って娘を交野少将に差し出した話と類似している。また、「宇治十帖」・浮舟(うきふね)の巻で薫の君・匂宮との三角関係に苦しむ浮舟が宇治川に身投げしようとした段は「長渕池(ながぶちいけ)」への身投げの話がヒントになっているのではないか、などと勝手に想像してしまう。紫式部も「交野少将物語」を心を痛めながら読んだのではないだろうか。娘に恨まれつつ死なれた交野少将がどんな気持ちだったのかわからないが、やはり責任を感じたのではないだろうか。京の都から遊びに来るイケメンの貴公子に恋をして死んでしまった交野の純情な田舎娘は哀れだ。(写真は「長渕池・ながぶちいけ」跡にある記念碑)](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/29/27/650x_10292776.jpg?updated_at=1229161617)
平安時代、交野ヶ原の郡津(こうず)に交野郡の郡司(ぐんじ)・宮道弥益(みやじいやます、びえき)の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕池(ながぶちいけ)」に身を投げてしまったと言う悲恋の伝説が残っている。
源氏物語、帚木(ははきぎ)の巻で紫式部が光源氏よりも派手で有名なプレイボーイだとしている交野少将(かたののしょうしょう)が交野に鷹狩に来た時、交野郡司(現代の市長)の家に泊まり、その娘と一夜を契った。その夜以来娘は交野少将に心を奪われ、少将恋しさで思い悩みつつ再び逢う日を待ちわびる。だが少将は再び娘を訪ねてくることがなく、自分が片思いだということを知って絶望した姫は、「 かつきゆるうき身の沫(あわ)と成ぬとも誰かはとはん跡(あと)の白浪」と泡のようにはかなく消えてゆくわが身のむなしさと恨みを辞世の歌に残し、交野少将に渡すように頼んで身を投げたと言う。 その長渕池(ながぶちいけ)は、現在は埋め立てられ、昔の葦(あし)の茂った湿田や沼池の景観は見られない。
松塚会館前の「長渕池・ながぶちいけ」跡には交野郡の郡司(ぐんじ)の娘が交野少将に失恋して飛込んだといわれる伝説と歌を記載した記念碑が建てられているが、男女の悲恋はいつの世でも変わらない。交野少将(かたののしょうしょう)はどんな人物だったのだろうか。「交野少将物語」という「源氏物語」 に先行する恋愛小説があったが現在は原本が残っていないそうで残念だ。だが一般に在原業平(ありわら の なりひら825−880年)や「交野少将」とよばれていた藤原季縄(ふじわら すえなわ)がモデルと言われている。交野に良く訪れていた有名なプレイボーイ・在原業平が「交野少将」であったなら納得できる。「平安時代の市川海老蔵」といったところだろうか。紫式部も源氏物語の「光の君」の人物像に交野少将のイメージを重ねているのではないかと思われるが、市川海老蔵が「源氏物語」の光の君を演じているのは適役だろう。
私は「交野少将物語」は「源氏物語」創作への影響を与えたと想像している。明石(あかし)の巻で 播磨守・明石入道(あかしのにゅうどう)が都の貴人と結婚させようと田舎者の一人娘(のちの明石の御方)を、「いい縁がないのなら死んでしまえ」と厳しく諭しながら源氏に差し出した話は地方豪族の交野郡司・宮道弥益(みやじびえき)が出世を願って娘を交野少将に差し出した話と類似している。
また、「宇治十帖」・浮舟(うきふね)の巻で薫の君・匂宮との三角関係に苦しむ浮舟が宇治川に身投げしようとした段は「長渕池(ながぶちいけ)」への身投げの話がヒントになっているのではないか、などと勝手に想像してしまう。紫式部も「交野少将物語」を心を痛めながら読んだのではないだろうか。
娘に恨まれつつ死なれた交野少将がどんな気持ちだったのかわからないが、やはり責任を感じたのではないだろうか。京の都から遊びに来るイケメンの貴公子に恋をして死んでしまった交野の純情な田舎娘は哀れだ。
(写真は「長渕池・ながぶちいけ」跡にある記念碑)