Images of 島田宿大井川川越遺跡
大井川[2002-11-12] 「矢切の渡し」「隅田川の渡し」と続いたら, 「大井川の渡し」を欠かすわけには行かないね, という意見があったので, 秋の一日を 大井川に行ってみた。江戸時代の主要な街道では 大きな川には 橋が架かっていないのは常識で,このあたり 静岡県内でも, 安倍川・天竜川・富士川などは 橋がなかった。中でも 大井川は,『箱根八里は馬でも越すが, 越すに越されぬ大井川』という歌があるように, 江戸時代の東海道の往来の中で最も通行が困難な場所だった。ちなみに 2番目は 箱根の山越え, その次は 宮の渡し(三重県・桑名〜名古屋市・宮の間海上の渡し船) という説もある。大井川が 他の地点の渡しと違う点は, 「大井川には 渡し船がなかった」こと。“徒(かち)渡し”といって, 人足に肩車して渡るか,担ぎ棒のついた台(連台)に乗って 数人の人足がかついで渡るか のいずれかだった。なぜ大井川には渡し舟をおかなかったかについて, “流れが急で 危険だから”と説明されているが, 現実には 江戸城・駿府城の防衛線として 大井川の戦略上の理由が大きかったのだろうと思われる。地図を見てもわかるように, 大井川は 静岡市の西方 25kmぐらいにあって, 駿府防衛の上から 非常に重要な場所であることがわかる。歴史的にみれば, 江戸時代初期に 宿駅伝馬の制が定められて, いわゆる東海道二十三次の街道整備が行われていったが, 大きな川には橋がほとんどかけられず, 渡し舟か歩いて渡るほかなかった。特に 大井川は 渡し舟は置かれず, また“不慣れな旅人が渡るには危険だから”という理由で 自分の足で渡ることも禁止し,川越しの手助けを職業にする「川越し人足」が常駐することになった。やがて 大名の参勤交代や 一般旅行者の増加とともに, 料金の統一などが行われ, 料金の収受や 川を渡る順番などを管理する必要から「川越制度」ができたのは,江戸に幕府が設置されてから およそ一世紀後の 1696(元禄9)年のことだった。大井川は, 赤石山脈(南アルプス)の 3,000m級の山を源流にもつ, 延長168キロ流域面積1,280平方キロの, 日本でも有数の急流河川とされている。東海道と交差する 島田市付近では 幅1キロぐらいの川幅で, 普段の水量は比較的少なめで,一見すると こんな川を渡るのに どうして苦労したのか と思うほどである。現在は 上流に多くのダムが作られ, 平時の水量は少なくなっているが,昔は 今より水量も多く 暴れ川だったのだろう。 川越遺跡 東海道線 島田駅から 西へおよそ2キロの地点に, 大井川の渡し(川越〔かわごし〕と呼ばれる)の跡「島田宿大井川川越遺跡」がある。国の史跡に指定され,当時の街並みが整備・保存されている。「島田宿」の入口に 大きな説明看板があって, 建物の名前などが図示されている。これがなかなかよくできているので, 下に示す。 「島田宿大井川川越遺跡」 入口の説明看板(図をクリック ⇒別windowに拡大表示) 「遺跡」と言っても,建物の土台などが残っているわけではなく,図に描かれているように, 昔の宿場町の「川会所」という役所と,川越し人足等が使っていた「番宿」など, いくつかの建物が復元された短い街並みである。これらの建物は 基本的に内部も公開されているのだが,ところどころに 普通の民家が混じっていて, うっかりすると 間違えて民家に入り込んでしまうのではないかと 心配になる。「川会所」は, 川越しの料金を決めたり 渡る順番を指示したり, 全体を統率する役所。意外に小さな建物で 普通の民家とあまり変わらない。現在は, 内部に いろいろな形の連台などを展示してある。「仲間の宿」は, 現役からリタイアした 年老いた人足たちの溜まり場。「番宿」は「一番宿」〜「十番宿」まであって, 人足の溜まり場。人足はここで待機し, 休息していたらしい。全部で 十数軒の建物が復元されているが, 映画のセットのようで あまり現実感がない。川越し関連の施設ばかりで, 旅人が泊まった宿屋(旅籠)がないせいかもしれない。川会所仲間の宿防火用水を置いた 番宿当時の旅行者は 島田宿に着くと, まず「川会所」に行って“川札”を買った。川札は 1枚が 人足一人の手間賃に相当する。料金は 渡しの方法 (肩車か 連台を使うか), 川の水量, 別に運ぶ荷物があるか,などによって 細かく決められていた。この川札を持って 川越し人足の宿(溜まり場)に行き, 人足を手配してもらう。旅人と人足が 料金などについて直接交渉することは 固く禁じられていたので,川札という金券で払う方法がとられた。人足は 裸で 川札をしまう場所がないので, 自分の髪の毛に結びつけて 川を渡ったという。そのため川札は 水に濡れてもいいように 油札 と呼ばれる紙が使われた。半高欄連台(手前) と 籠(中央)平連台(右) と荷物用の連台(中央)料金は, 基本的に 川札1枚が 人足一人分の賃金に相当しており,連台を使う場合は それぞれ細かく料金が定められていた。肩車 川札1枚平連台・1人乗り 川札4枚+台札2枚 (はしごを横にしたような連台)平連台・2人乗り 川札6枚+台札2枚半高欄連台 川札4枚+台札4枚 (両側に手すりがついた連台)などと細かく決まっている。“川札4枚”というのは 平連台を4人で担いだことを意味する。連台の種類は この他, 中高欄・大高欄 などがあり,大名は 大きな台に 籠 を乗せて, 数十人の人足が渡したという。川札の値段は 水量が 人足の股下以下の場合 1枚48文が基本だが,川の水量が増えると その程度によって,最大2倍の料金差になる仕組みになっている。下の写真には 1文=30円 で換算した金額も書かれているが,当時の庶民にとって かなり重い負担だったと想像される。川越しをする場所は,上下約50メートルの幅に限定されていて,それ以外の場所から 渡ることは禁止されていた。人足による川越しは, 当然 夜間は通行止めになった。また水かさが増えて "脇通"(4尺)を越えると 自動的に「川留め」となった。川留めは 平均すると年間50日程度あったといわれる。通常は 数日以内に解除になったようだが, 雨の多い季節は 川留めも長くなり,最も長い川留めは 28日 という記録があるという。そんな時 旅人は ひたすら水が減るのを待つしかないので, 数百人から 時には 1000人を超える泊まり客が 川の両岸の宿場, さらに 隣の宿場まであふれることもあったといわれる。当然 宿屋の収入は莫大なものだっただろう。また, ここは 時の将軍をはじめ 参勤交代の大名たちから, 武士・一般庶民などあらゆる階層の人間が通った。そのため 有名な人が通過・滞在した記録がいくつも残っており, 文化的にも高い水準であった。たとえば 松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳句が いくつも句碑になっている。女性の日本髪の結い方の一つ『島田髷』は この地が発祥の地だし,『帯祭り』という行事も行われているなど, 経済的・文化的な水準の高さは相当なものであったらしい。川越し人足の数は, 島田と 対岸の 金谷 のそれぞれに 350名 ときめられていたが,江戸末期には 650名に増えていたという。しかし 明治3年になって 川越制度が廃止されると, 渡し船が許可され,人足の大部分は職を失った。ちなみに, 大井川に橋が架けられたのは 明治16年のことになる。失業した人足の一部は. 大井川西岸に 広大な茶畑(牧之原茶園)を開拓した。現在 この地方で 農業といえば 茶業 を意味するほどで, お茶の生産は静岡県全体に浸透している。余談だが, 右の図を見てほしい。上に掲げた「大井川川越遺跡」の説明看板の 左下の部分を切り出した図だが,全くおかしな絵で こんなことってあるのだろうかと首をひねってしまった。男女の旅人が それぞれ人足に肩車されて 川を渡っているのだが,男性はまあいいとして, 女性の場合は こんなことはあり得ないように思う。いくら 仕事として川越しをしている人が相手だとは言え, 当時の女性がこんな はしたない姿をしたものだろうか。そもそも, 和服姿で肩車なんて とても可能だとは思えないし, ましてや・・・ 蓬莱橋 島田市には 川越遺跡を見るために行ったのだが, もっと面白いものを見つけてしまった。「島田宿大井川川越遺跡」から 約2.5キロ下流, 島田駅から 1.5キロ南東に,「蓬莱橋」という 珍しい橋がある。幅の狭い木の橋で, 30cmぐらいの低い手すりがついている。水面からの高さは 5mぐらいだろうか。このような橋は どこにでもありそうだが,そんじょそこいらにあるのは せいぜい 10mぐらいのもの。ここは およそ900mという 特別長い橋で, 木造では世界一を誇っている。蓬莱橋は 明治12年に大井川に架けられた木造の橋。平成9年12月30日付けで 「木造歩道橋として世界一の長さ」とギネスブックに認定された。橋のたもとに 記念碑が建っている。橋の長さ897m 橋の幅 2.7m。通行時間:日の出〜日没 (休日なし) 夜間は通行止。全国唯一の“木造賃取橋”。歩行者と自転車専用。通行料金(往復):歩行者50円 (15歳未満は無料),自転車70円お金を払って 歩いてみた。手すりは極端に低くて 無いに等しいから 実に頼りない。コワゴワと橋の中央を歩きはじめたが, そのうちに慣れてきて,橋の下をのぞいたりできるようになった。しかし 写真を撮るのに夢中になっていると ついついバックして 端まで行ってしまい,ヒヤリとしたりする。 腐って穴があいた端部分鉄パイプで補強された手すり2.7mの幅というのは あまり広くない。両端は怖くて歩けないから,二人並んで歩くと 向こうからやってくる人とすれ違うのは難しい。橋は それほど 古い 印象はなかったのだが, 歩き始めるとあちこち ギーギー音をたて, 場所によっては 床板がバクバク浮いたりしている。床板の端の方は 腐って穴があき, 橋の下が覗ける状態になったところもある。低い欄干も 腐ってボロボロになったところがあり, 鉄パイプを添えて臨時に補強したりしてある。補強と言っても ロープでぐるぐる巻きにしてあるだけだ。危険個所は 赤いペンキを塗ったり, 赤いテープを巻いたりしてある。 上下左右にうねった手すりもちろん そういう危なっかしいところは たくさんあるわけではないが,全体として見ると やはり もう少し手入れをよくしてほしいと思う。下の写真のように, 橋の先の方を眺めると 手すりが 上下左右にウネウネと曲がっている。しかし, なんやかんや言っても, この橋をのんびり歩くのは とても気持ちが良かった。1km近い 長い橋なので, ゆっくり歩くと 向こう岸まで 片道15分以上も時間がかかる。家族連れや 男女のカップル, 車椅子の人など 大勢の人が歩いていた。快晴の秋空の下, のどかで 実に楽しい休日だった。 蓬莱橋の歴史 1869(明治2)年7月, 最後の将軍 徳川慶喜 を護衛してきた幕臣達が 大井川右岸にある牧之原を開拓し, お茶を作り始めた。 当初は大変厳しい環境の中で, 筆舌にはつくせない苦労の連続だったが,そのかいがあって 順調に茶栽培が営まれ, 生活が安定するにしたがって, 島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。 また, 大井川を小舟で渡らなければならず, 大変危険なことだった。 そこで, 島田宿の開墾人総代達は, 時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され, 1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし, 木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え, 今日の姿となった。 現在の蓬莱橋は, 全長897m(平成9年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」), 通行幅2.4mであり, 大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。 静岡県島田市 コメント或いはご意見がありましたら,《こちら》へ