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第十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:浦添大公園・嘉数高台公園編~
2014年7月に訪れた沖縄戦跡国定公園の〝黎明之塔〟に端を発した戦争史跡巡りですが、今回は平成27(2015)年6月23日の〝沖縄慰霊の日〟に沖縄県営平和祈念公園で執り行われる〝戦後70年沖縄全戦没者追悼式〟に参列するためにこの沖縄の地へとやってきました。そして今回の旅初日の目的は、昨年平成26(2014)年12月14日に暗闇の中訪れた〝嘉数高台公園〟の再訪と〝浦添大公園〟を訪れることに始まります。
空港から約1時間で〝浦添大公園〟へとやってきました。現在は子供の遊具や展望台が並んでいる〝憩いの場〟となっており、平和そのものもの光景が広がっていますが、70年前この〝浦添〟地区では沖縄戦の中でも激戦のひとつであった〝前田の戦い〟の〝戦場〟となった場所になります。ただ〝場所的〟なものを勘違いしていたところもあり、立ち寄っただけにしか過ぎません。〝前田の戦い〟に於ける史跡は、多くが〝浦添城跡〟にあり、浦添大公園脇にある〝霊園〟などは、その〝前田高地戦争史跡〟の上に建っているとも聞きました。以前新聞にも載っていた話ですが、〝都市計画〟のために〝戦跡〟そのものが取り壊されるケースもあることから〝開発〟に対する是非論はありますが、やはり〝残せるものは残して〟頂きたいように思います。
今回は残念ながら急に雨がさーっと降ってきたため、公園頂上にある展望台から、〝雲の様子〟と〝景色〟、そして〝嘉数高台との位置関係〟を確認し、また改めてくることにしました。そして次に向かった先は、お隣りの宜野湾市にある嘉数高台公園になります。一ヶ所道を間違えてしまいましたが約25分で宜野湾市の嘉数高台公園へとやってきました。実はこの場所〝初めて〟ではなく、昨年平成26(2014)年12月14日に〝日没後〟に訪れた〝因縁の場所〟になります。レンタカー手続きのウダウダからその後の行程がずれ込んでいるため、17:00前の到着と早くはありませんが、夏至の時期なのでそういう意味ではまだ余裕があります。
嘉数高台公園のアウトラインは先述しているので補記するだけにしますが、前回は時間も時間だったので、撮った写真ですら〝検証〟が出来ていません。展望台から撮った写真も南北逆のものもあったりで…。しかしそれよりこの〝嘉数の戦い〟があった場所にある〝嘉数高台公園〟、やはり〝恐怖心〟があったのも確かです。それを順序良く回って1時間半、運動不足を感じながらなんとか回ることが出来ました。今日は沖縄慰霊の日前々日の6月23日、頂上部にある〝慰霊塔〟に飾られている〝献花〟や〝千羽鶴〟も新しいものが多く見られます。南国独特の〝スコール〟のような雨が降ったりと、天気はそれなりでも〝不快指数〟がMax状態のこの地で、70年前の〝体感状態〟とはこのようなものだった…と思いつつ手を合わせ、〝鎮魂〟を願い歩いて行きます。そして例の〝地球儀型の展望台〟に登り、初めて〝米軍普天間基地〟の様子を眺めます。日曜日の夕暮れ時だったのであの〝オスプレイ〟の動きは見ることはできませんでした。
前回に訪れた際に一通り回って来ていたように思っていました。しかし日暮れの遅い沖縄の地であっても12月14日の19:24という時間、当然あたりは真っ暗でした。そのため〝遊歩道〟を一周して来たことで〝見学終了〟と思っていたのですが、実は〝階段〟を使わないで下りて行く〝遊歩道〟の存在に気付いていませんでした。〝京都の塔〟〝嘉数の塔〟から〝トーチカ〟方面に下りずにまっすぐに進む道がそれになります。ここには〝京都部隊激戦死守の地の碑〟〝嘉数護獅子〟があります。
〝京都部隊死守の地の碑〟、これは嘉数高台公園頂上部に京都出身の兵士の慰霊塔である〝京都の塔〟があることからも想像ができます。〝嘉数の戦い〟に於いて火力兵力に到底敵わない米軍を迎え撃った第32軍隷下第62師団の部隊は多くが京都で編成され、このふるさと遠く離れた嘉数の地で玉砕されました。〝京都の塔〟は慰霊塔として記録はあるものの、〝京都部隊死守の地の碑〟はなかったようです。謂れがなくともやはり京都の文字を見ると否応なしに〝嘉数の戦い〟を思い出します。
そして〝嘉数護獅子〟、多分写真を見てもこれが〝獅子(シーサー)〟とはわからないと思います。元々この〝嘉数護獅子〟はいつ作られたかは不明であるものの、〝嘉数の村獅子〟として火伏の厄払いの守り神とされていたと同時に、〝浦添ようどれ〟が風水上良くない地形とされており、〝悪霊退散〟の意味も込めてこの嘉数集落を守っていたようです。以前は子供数人が乗って遊べるくらい大きなものだったようです。しかし沖縄戦によって木端微塵に破壊され、戦後嘉数の住人によって〝破片〟が集められ、見つからないピースの部分はセメントで〝継ぎ足し〟復元されたものがこの〝シーサー〟になります。戦前の所在地は今とは異なっていたそうですが、〝嘉数の戦い〟の戦場となった場所である〝この地〟に移設されたとのことでした。確かに今見ることができる商品化された〝シーサー〟とは似ても似つかないところはあるものの、南部糸満にある〝魂魄之塔〟のように〝あるもの〟で作られていることは、作為的なもの抜きにその〝存在感〟を伝えることは、間違いなく〝歴史の生き証人〟として戦後世代に訴えかけられるものがあります。不格好ではあるものの、その存在感を永久に持ち続けて欲しい…、そう思います。
嘉数高台公園を一周回った後、周辺の慰霊碑等の情報を仕入れて回ろうとしますが…どうも道が繋がりません。嘉数集落自体が既に住宅地化しており、車を置いて歩いて回ろうとすると邪魔になります。一観光客のエゴで住人の方にご迷惑を掛けることは許されるものではないので、次回は〝チャリンコ〟か〝バイク〟、若しくは自信がないものの〝徒歩〟で回ろうと決心し、〝嘉数の一日〟を終えることにしました。既に時刻は19:00を過ぎており、さすがに日差しも傾いてきました。
偶々昔の新聞記事をweb検索していたところ〝沖縄の慰霊碑、千羽鶴燃やされる 宜野湾市〟という記事が出ていました。
〝平成22(2010)年7月13日午後1時すぎ、沖縄県宜野湾市嘉数の嘉数高台公園にある戦没者慰霊碑「嘉数の塔」で、「掲げられていた千羽鶴が燃やされている」と県警宜野湾署に地元住民から通報があった。
宜野湾署は器物損壊の疑いで捜査している。千羽鶴は小学生など地元住民が折り、6月の追悼式で塔に二つ供えられていた。近くに設置されていた香炉も壊されていた。
同署によると、13日午前6時ごろ、付近を散歩中の住民が発見し、自治会長が通報した。12日昼以降に燃やされたとみて調べている。
公園は、米軍普天間飛行場近くで、同飛行場が一望できる高台にある。沖縄戦では激戦地となり、多数の死傷者がでた。〟
この〝嘉数の地〟は、昭和20年の沖縄戦の中でも〝熾烈な戦い〟のひとつとして知られる〝嘉数の戦い〟で第32軍隷下の陸軍第62師団が、軍備兵力共に勝る米軍を迎え撃った戦場だった場所です。京都出身の将兵が多かったこの第62師団でしたが、その戦いを様々な面で支えたのがこの〝嘉数集落の住人〟でした。戦後都道府県別の戦没者慰霊塔が沖縄島南部に建立されて行く中で、〝京都の塔〟はこの嘉数の地に建立されました。その碑文の中に戦場となった〝沖縄〟の戦争被害に触れている2つの慰霊塔のひとつとして知られていますが、その後この〝京都の塔〟と同じ敷地に、〝嘉数の戦い〟に協力して犠牲となった〝嘉数集落の戦没者〟を祀るため、昭和50(1975)年6月10日に〝嘉数の塔〟が建立されました。慰霊塔の管理は嘉数自治会がされておられますが、建立は〝京都の塔〟と同じく〝財団法人沖縄京都の塔奉賛会〟となっています。勿論この〝嘉数の塔〟建立の経緯事情まではわかりません。しかし碑文を見る限り〝戦争〟という〝破壊と憎しみ〟しか生まない時代のこの〝一体感〟、京都所縁の一観光客は、この地を訪れるとなぜかホッとするところがありました。しかし〝慰霊の日〟に奉納された子供たちの〝想い〟のこもった〝千羽鶴〟に火をつけ、〝香炉〟を壊すことは許されざることです。確かに前回訪れた時は〝暗闇の中〟でしたが、公園でもあるため〝明るくはない〟ながらも歩いて見学することができました。閉鎖される時間がないためできたことでもありますが、その反面〝恐怖心〟もあったのも事実です。私自身〝感受性〟は低く、〝霊〟的なものは疎いためあまり気にはならないものの、〝暗闇の中の展望台〟にいる〝何をするわけでもない若者〟には、なにか〝恐ろしいもの〟を感じた記憶もあります。
何でもかんでも〝ハード面〟で締めつけることが良いとは思いませんが、やはり〝慰霊〟という〝言葉〟の意味すらわかっていない輩には、何等かの手立てで対抗するしかないように思います。言い方は悪いですが〝嘉数の塔〟に奉納された〝千羽鶴〟を燃やすことができるのは、沖縄県民ではないと思います。
長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで〝第十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:浦添大公園・嘉数高台公園編~〟を終わります。
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