Images of 皇建 (北斉)
〔旅のテーマ〕
迎賓館を見学する。
〔見学までの経緯〕
5月ごろ、内閣府のホームページから見学抽選申し込み。
7月下旬ごろ、メールにて当選通知。
〔同館の概要〕
東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が1924年(大正13年)成ると、その後の数年間、赤坂離宮は再び東宮御所としてこの一家の住居となったが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。
第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948-61年)、法務庁法制意見長官(1948-60年)、裁判官弾劾裁判所(1948-70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961-65年)などに使用された。
その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。
これを受けて、池田とその後任の佐藤栄作首相の在任時に政府部内で検討を重ねた結果、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、1974年(昭和49年)3月に、迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。
2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている。
2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。
(Wikipediaより)
〔同行者〕
妻(32)
なばなの里へ行く途中に多度大社へお詣りしてきました。多度大社は5世紀後半、雄略天皇の御代に御社殿が建てられました。 本宮の多度神社には、伊勢の神宮の御祭神、天照大神の第3皇子である天津彦根命をお祀りし、その御子、天目一箇命を別宮の一目連神社にお祀りしています。 この御祭神の関係から「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」と謡われ、北伊勢地方の総氏神様として崇められています。 また、南北朝時代には多度祭の上げ馬神事も始まったと伝えられています。 然しながら元亀2年(1572年)、織田信長による兵火に罹り、御社殿を始めすべての御建物と、暦朝より賜った神位記・御神宝・諸記録のすべてが失われました。 その後、江戸時代に入り、桑名藩主本多忠勝公により莫大な寄進を受け、御社殿等も復興されました。 近代に入り、明治6年県社、大正4年には国幣大社という高い社格が授けられ、現在でも地元を始め全国の人々から厚い崇敬を受けています。
多度まつりは毎年5月4日5日の両日に行われます。中でも「上げ馬神事」は多度まつりの最大の呼び物で、全国から大勢の見物客が集まりにぎわいます。しかし2009年上げ馬神事において、神事を運営する地元の団体が、本番前に馬を興奮させる目的で、馬の腹部などを蹴ったり殴打したりしていたことが、津市内の動物愛護団体からの告発によって明らかになり、三重県警が動物愛護法違反の容疑で、団体に所属する桑名市内の住民らを書類送検しました。上げ馬神事は、動物虐待に当たるとの指摘が以前から多数出ており、多度大社も、三重県教育委員会から勧告を受けています。