Images of 禰冝田政信
JR(又は東武伊勢崎線)久喜駅からバス通りを西進約15分、市役所通と交差する中央公民館の北隣には御陣山公園があり、この一帯が米津陣屋(よねづじんや、埼玉県久喜市中央4)で江戸時代には米津氏の陣屋があったと言われています。
米津氏の出自は清和源氏の流れをくみ三河国碧海郡米津村を本貫地とする三河武士で、徳川家の家臣として米津勝政(よねづ・かつまさ)が松平清康・広忠そして家康に仕え、その子常春(つねはる)は松平広忠・家康に仕え徳川十六神将の一人とされているほどの武将です。
常春には政信(まさのぶ)という弟がおり、政信の四男である田政(ただまさ)が分家として独立、田政の後裔が久喜に関わりを持つことになります。
田政は父政信し従い三方ケ原の戦いに出陣、更に小牧・長久手の戦いにおいても戦功を挙げ武蔵国に5千石を賜り江戸町奉行となって以来約20年間奉行をつとめ初期の幕政と江戸施政に大きく貢献します。
二代田盛の頃父の遺領を継ぎ寛文3年(1666)大坂定番となり摂津及び河内において都合1万石の加増を受け1万5千石の大名に列せられます。
三代政武(まさたけ)は貞享元年(1684)家督を継ぎ弟の田賢(みちたか)に3千石を分知し、自らは領地替え後の武蔵・上総・下総・常陸の内11郡の1万2千石を領して久喜に藩庁として陣屋を構え久喜藩を成立させます。
寛政10年(1798)、七代通政(みちまさ)の頃久喜を含む武蔵国の所領6千4百石余を出羽国村山郡長瀞(現山形県東根市)に移され、通政は居所を長瀞に定めた為久喜領及び陣屋は代官に引き渡され幕府直轄領となり、三代政武から七代通政まで約115年続いた久喜藩は廃藩に至ります。