Images of 第2次ナルヴィク海戦
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1.ノルウェーとドイツ
以下チャーチル著「第二次大戦回顧録」中ノルウェーを日本に置き換え、ドイツを中国に置き換えると日本と中国の現在の状況を示している。
日本政府は有償無償の資金援助を数兆円供与し、日本の民間は技術を供与し、中国の発展を支援した。多くの留学生を受け入れ、教育した。
ところが現在、中国は南シナ海を占拠し、尖閣諸島の領有権を主張して、東シナ海から太平洋への出口を求めている。
中国本土では、漢民族以外の民族を弾圧し、ナチスがユダヤ人、反体制のドイツ人を強制収容所送りとしていたように、他の民族及び反体制民間人を収容所送りにしている。
ヒットラーが目指したものは何か。ヨーロッパを支配する第三帝国である。優秀なドイツ人が他の劣等な民族を支配する帝国である。
第一帝国とは、ローマ帝国である。第二帝国とは神聖ローマ帝国である。ヒットラーが最も優秀だと信ずるドイツ人による支配である。
ナチスドイツが成し遂げたことの一つは軍事力に依るヨーロッパ市場の統合である。その後継がEUである。EUは強大なドイツを中心とする条約によるヨーロッパ市場の統合である。
中国が目指していることは何か、資金力と技術力と依る新興国の経済的な支配である。これに最近気が付いた米国はようやく、対抗措置を取るようになっている。
チャーチル著「第二次大戦回顧録」4巻第13章ナルヴィクよりの引用
「幾世紀にわたって、ノルウェーは世界政治の渦巻きの外にあった。質素強健な国民は、貿易に、海運に、漁業に、農業に励んでいた。遠い昔にはヴァイキングが、当時知られた世界の大部分を征服または荒らそうとして乗り出した時代もあった。
百年戦争も三十年戦争も、ウィリアム三世とマールボローの戦争も、
ナポレオン戦乱も、またその後の争闘もノルウェーをそのまま無傷に残して来た。
ノルウェーはデンマークから隔離されただけである。従来、ノルウェーの国民の大部分は、中立をーー中立だけを考えて来た。
山地の多い、半北極圏の国で平和に暮らすこと以外に何の望みも持たない小さな軍隊と人民が今や新しいドイツの侵略の犠牲になったのである。
中略
ノルウェーの場合には、ドイツは友情の仮面の下に、黙々として残忍に、宣戦の布告もなく、何ら警告も発しないで、
ある暗夜にこの国を滅ぼそうとした。侵略行為そのものより以上にノルウェー人を唖然とたらしめたのは、
長年友情を表示して来た大国が突然恐ろしい敵として現れた事実を
全国民が知ったこと---商売や、職業上、親しい関係を保った来た男女がスパイであり、
破壊の代表者であった事実を全国民が知ったことであった。
ノルウェー国民は、条約やあらゆる国際義務の侵犯を目前に見たことより、ドイツの友が長年の間、この国に対する侵入とその後の奴隷化について、最も綿密な計画を練っていた事実を知ったことによって仰天させられたのである。」
2.ナチスドイツによるノルウェーとデンマークを占領した背景
日本もそうであるが、誰しもが聞きたくない事実は耳を塞ぎ、中立を宣言して厳格に国際条約を順守していれば、他国も順守し、平和は守られると信じていたのがノルウェー国民である。
第一次大戦中はスカジナビア三カ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)は中立を宣言して、
戦火から逃れることができたのである。スカジナビア三カ国は決して豊かな国ではない。特にノルウェーは豊かな国ではない。
戦後、北海で原油が発見されるまでは私の友人は「スウェーデンには鉄鉱石ばかりあるが、ノルウェーには石ころばかりだ。」と言っていた。
誰もが、ノルウェーを占領することはないと思っていても不思議はないのである。
3.軍事的理由
a ドイツ海軍
ところが、ドイツ海軍は第一次大戦後から、ノルウェーとデンマークの占領を計画していた。
軍事的な理由は、ドイツ海軍が大西洋に出るための安全な出口の確保である。ドイツ海軍の主要な軍港はキール軍港であり、
キール軍港は、バルト海にあり、大西洋への出口はデンマークのユトランド半島とスカジナビア半島の間の狭い海峡、スカゲラック海峡を通らねばならないのである。
イギリス海軍は、この海峡に機雷等を配置し、海峡を封鎖すればUボート等の出撃を阻止できるのである。
ドイツ海軍にとって、スカジナビア半島の大西洋岸、すなわちノルウェーの大西洋岸のフィヨルドには北海に出撃し、通商破壊するのに魅力的な港が豊富にある。
2014年にボードーから、ベルゲンまで沿岸急行船でフィヨルドの奥にある多くの港を訪問した。これらの港を軍事的な視点で見ると、フィヨルドの奥にあるため、艦艇に依る攻撃は、難しく、航空機に依る攻撃はイギリス本土からはるか離れている
いるため、これも難しい。航空機による攻撃は実際にはイギリスの航空母艦からの攻撃が行われたことがあったが、限定的であった。ドイツ海軍がヨーロッパ(イギリス)との通商ルートを破壊するため北海に出撃するための魅力的な港をノルウェーは提供した。
b ドイツ空軍と落下傘部隊
ドイツ空軍にとっては、北海を監視し、ロンドンを爆撃するための魅力的な空港が二か所ある。
ひとつはオールボーである。オールボーはデンマークユトランド半島の先端にある。ここを1940年4月9日ドイツ軍降下部隊に依り占領された。
wikiに依れば、オールボーは世界で最初に落下傘部隊によって占領された都市と言われている。
世界で二番目に落下傘部隊により占領された都市は、ノルウェーの首都、オスロである。1940年4月9日正午までに、オスロ近郊のフォルネブ空港にごく少数のドイツ落下傘部隊が降下し、何の抵抗もなく占領した。
c ノルウェー国王の誘拐
本来のドイツの計画は、1940年4月9日未明、ノルウェー全土を同時にドイツ海軍に依り、占領し、
オスロ国王を捕らえて、ドイツの保護下に置くことであった。
オスロについては、本来は、ステッチン軍港を出発したドイツ海軍が重巡洋艦、軽巡洋艦に多数の占領要員を乗せて、占領する予定であったがホーテン港のノルウェー海軍の艦船とオスカーボルグ要塞に依り、阻止され、その代替として、フォルネブ空港を占領したものである。
もう一つはノルウェーのベルゲンの南方にあるスタバンガルである。
d 制空権の確保
スタバンガルには現在は、NATOの北方司令部が置かれている要衝の地である。
ここスタバンガル港には1940年4月9日ドイツ軍が上陸し、近くのソラ飛行場を空挺部隊と共に占拠する。
このソラ飛行場を確保したことは、イギリス本土への爆撃、ノルウェー全土への攻撃を可能にする。
近年の戦争において、勝利するためには制空権の確保が必須である。
ソラ飛行場とフォルネブ空港を失ったことにより、ノルウェー全土の制空権は、ドイツ軍に与えられることとなる。
イギリス軍、フランス軍、亡命ポーランド軍と少数のノルウェー軍はドイツ軍に抵抗を試みるが優勢なドイツ空軍の攻撃により、ノルウェー軍は1940年6月10日に降伏、
イギリス軍、フランス軍、亡命ポーランド軍は1940年6月8日までにノルウェーから撤退する。
1945年5月8日ノルウェーは自らノルウェーを解放するまでドイツの占領が続くこととなる。
4.戦略的理由
戦争を継続するために、鉄の生産は不可欠である。ドイツが必要としている鉄鉱石の90%はスウェーデンのキルナで生産されていた。
夏場は、バルト海を経由して、ドイツに輸送されていた。冬場はキルナから鉄道でノルウェー北海沿岸のナルヴィックまで鉄道で輸送され、そこからは船でドイツに輸送されていた。
ノルウェーが中立を守り、イギリスなどがノルウェーの中立を侵犯し、ナルヴィックからドイツへの鉄鉱石の輸送を妨害しなければ、問題はない。
5.1940年4月8日オスロフィヨルドの戦いの始まり
a Pol III
1940年4月8日深夜、キール軍港を出発したドイツ海軍の2隻重巡洋艦、1隻軽巡洋艦、一隻の魚雷艇と8隻の掃海艇が
オスロの占領を目的として、多数の占領のための要員2000名を満載して、オスロフィヨルドを北に向かっていた。
最初に、ドイツ海軍を発見したのは、捕鯨船を改造した巡視船Pol IIIである。発見したの時間は、1940年4月8日23:30。
巡視船Pol IIIはフィヨルドの沿岸に設置された砲台にドイツ海軍の侵入を知らせるために信号弾を打ち上げる。
これに気づいた、ドイツ海軍の魚雷艇アルバトロスは対空機関銃をPol IIIに浴びせて、火災を生じさせる。Pol III艇長のLeif Welding-Olsenは負傷し、両足を失い、出血により、救命ボートに移動することができず、落命する。
b Rauoy砲台
ホルテンの北60Km、Pol IIIがドイツ海軍の魚雷艇アルバトロスと交戦した地点より数キロ北のところの島にRauoy要塞がある。
ノルウェーでは、主要都市はフィヨルドの奥深い所にあるため、主要都市を守るために各フィヨルドの入口の島、岸に要塞を置き、砲台を設置し、巨大なサーチライトを装備して、フィヨルドを侵入してくる艦船を監視、攻撃しようとしていた。
これらの要塞は海上より高い位置にあるため、艦船から攻撃することは難しく、砲台の後方などに上陸し、陸戦により、砲台を沈黙させるか、近年においては航空機の爆撃により、砲台を沈黙させるしかない。
日本も湾口、港の入口の砲台により、苦しめられた戦いを経験している。それは日露戦争の時、日本連合艦隊が旅順港に停泊するロシア旅順艦隊を攻撃するに際して、ロシア軍は旅順港の入口に強力なサーチライトと砲台により、連合艦隊の侵入を阻んだ。
日本は旅順港閉塞作戦を実施し、旅順港の入口中央に船を沈めて、旅順港からのロシア艦隊の出撃を阻止しようとしたが、これに失敗して、日本は旅順攻囲線で旅順港の背後の高地を占領し、高地から旅順港を攻撃し、旅順を占領する。
Rauoy要塞は1930年代には、ラオイは急速に近代化し、1934年には2つの15 cm砲台が装備され、それぞれに19,500メートルの射程を持つ2つのHKL / 50 ボフォース砲が搭載されていた。さらに、直径150cmのサーチライトを装備した。
1940年4月8日23:30 Rauoy要塞南砲台の150cmのサーチライトにより、二隻の戦艦が確認される。先頭艦の前に警告弾を発射する。23:42 周辺の霧が深いため4発を発射した後、発射を停止する。
1940年4月9日5:05 Rauoy要塞のReef Bayに面した東側の海岸に二隻にに分乗したドイツ兵が上陸し、要塞のノルウェー兵と交戦となる。ドイツ軍は要塞に降伏を要求し、要塞の兵は、その日の内に退却する。
c HORTEN湾の戦いと機雷戦
HORTEN湾の戦いはノルウェーは機雷敷設艦、掃海艇 対するドイツは魚雷艇と掃海艇という小型の艦艇同士の戦いであり、非常に珍しい。
ドイツ側が艦隊に、一隻の魚雷艇と8隻の掃海艇を同行させていたのは、ノルウェーがオスロフィヨルドへの侵入を防ぐために、機雷を敷設していることを恐れての事か、又はHORTEN海軍港の占領を目指してことなのかは不明である。
HORTEN湾の戦いについしてはチャーチル著「第二次大戦回顧録」に以下の記述がある。( )内は
「その夜(1940年4月8日)ドイツの軍艦はオスローに近寄った。外側砲台(Rauoy砲台)が発砲した。ノルウェーの守備艦隊は機雷敷設艦オラーフ・トリグヴァンソン号(HNoMS Olav Tryggvason)と二隻の掃海艇(HNoMS Otra Rauma)であった。
夜明けの後に、二隻のドイツ掃海艇(the motor minesweepers R17 and R21)が海岸砲台の付近(HORTEN港の誤りではないか)に上陸させるためにフィヨルドの入口に入った。一隻はオラーフ・トリグヴァンソン号に撃沈されたが、ドイツ兵は上陸し砲台を占領した。
しかし、勇敢な機雷敷設艦はフィヨルドの入口で二隻のドイツ駆逐艦をせき止め、巡洋艦エムデン号に損害を与えた。
砲一門を持っているだけのノルウェー捕鯨船(Pol III)が侵略者に挑戦せよという、特別命令を受けないのにすぐ行動を開始した。
この捕鯨船の備砲は粉砕され、船長(Leif Welding-Olsen)は砲弾で両足を飛ばされた。」
実際に機雷を敷設した事例では、チャーチル著「第二次大戦回顧録」によれば、「(1940年)4月8日04:30-05:00の間に、イギリス駆逐艦4隻がナルヴィク港への水道ウェスト・フィールドの入口沖に機雷原を敷設した。」
イギリス海軍の機雷敷設の目的は、ナルヴィク港からドイツへの鉄鉱石の海路での輸送を妨害しようとする試みである。
d 朝鮮戦争、太平洋戦争、イラク戦争と海上自衛隊
近代において、機雷が最も多く使用されたのは、太平洋戦争中に日本国の通商を妨害するために、米軍機により、日本国の周辺にまかれたことではないかと思う。
そのため日本国においては、戦後、掃海能力を維持し、拡大して、日本の周辺海域の掃海だけでなく、朝鮮戦争にも米軍の命令に出撃し、ペルシャ湾にも自衛隊を派遣して来た。
現在においても、呉海上自衛隊基地や横須賀海上自衛隊基地では多くの掃海艇、掃海母艦を見ることができる。
私は、金比羅宮訪問時まで、現海上自衛隊の前身が、事実上、朝鮮戦争に参戦し、元山上陸作戦のために掃海に従事していたことは知らなかった。
(機雷除去作業に命賭けた掃海艇乗組員の物語 慰霊碑が金比羅宮参道階段右 掃海殉職者顕彰碑 参照)
当然、現在でも韓国海軍と韓国国民は知らなかったと思っていた。
ところが、平成14年10月24日韓国ソウルで開催された日韓軍事史研究会において「朝鮮戦争における対機雷戦」として詳細な報告がなされていたのである。会合には、現役と退役した多数の陸海軍軍人と研究者が出席していた。
中でも最も有名な出席者は最近逝去したぺク大将である。
少なくとも、会合に出席した多くの韓国軍人は、朝鮮戦争に日本が参戦していたことを知っていたはずである。特に世界中の海軍軍人は、国際法、国際慣習を熟知している。
それにもかかわらず、韓国海軍が日本の哨戒機に射撃管制レーダーを照射したり、観艦式に招待した各国海軍に軍艦旗の掲揚を認めなかったことは到底理解ができないことである。
e ノルウエー国旗、軍艦旗とHORTEN王立ノルウェー海軍博物館
2014年6月24日友人の運転でオスロから王立ノルウェー海軍博物館を訪問し、HORTENからMOSSまでフェリーで移動し、オスロに戻った。
一言で言うと、時計と反対にオスロフィヨルドを一周したことになる。
ここを訪問した日本人は私が最初で最後ではないだろうか。その理由はノルウェー人にさえ知られてないことである。
ここの説明は、ノルウェー語のみで行われており、スカジナビア三カ国以外の国民以外には理解しがたい。
友人には息子が一人いるが、この息子も、そのガールフレンドもこの王立ノルウェー海軍博物館には行ったことがないようである。
というよりは、ノルウェーも日本と同様に歴史教育が行われていないようである。
オスロ大学でギリシャローマ美術を専攻し、スウェーデンのウプサラ大学に留学し、RUNESTONEとPICTURESTONEの研究をおこない、
スカジナビア、特にノルウェーの歴史に詳しいはずの友人でさえも、1940年4月8-9日に何が起こったのかを詳細には知らなかった。
2017年に映画化された「ヒトラーに屈しなかった国王」では1940年4月に何が起こったかを描いている。この映画を見たノルウェー国民は初めて、詳細に何が起こったのか知ったのではないだろうか。
ここ王立ノルウェー海軍博物館では、1940年4月8-9日の戦いで活躍したPol III、Olav Tryggvasonの写真を掲示してあったようだが、
私は見落としてしまった。王立ノルウェー海軍博物館のWEB上では写真が掲載されている。
ここ王立ノルウェー海軍博物館ではいくつかのコーナーに分かれて展示してある。
ヴァイキング時代
ノルウェー海軍の歴史
海軍の歴史の一部として、国旗、軍艦旗の変遷が展示してある。
特別コーナーとして1940年4月のフィヨルドの戦いが展示してある。
屋外にはドイツ製の潜水艦が展示してある。
ノルウェー海軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E8%BB%8D
「ヒトラーに屈しなかった国王」
https://eiga.com/movie/86245/
王立ノルウェー海軍博物館
http://www.forsvaretsmuseer.no/Marinemuseet
日韓軍事史研究会
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200303/19.pdf
HNoMS Olav Tryggvason
https://en.wikipedia.org/wiki/HNoMS_Olav_Tryggvason
機雷除去作業に命賭けた掃海艇乗組員の物語 慰霊碑が金比羅宮参道階段右 掃海殉職者顕彰碑
https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/11071413
Marinemuseet
https://forsvaret.no/kultur/museer/Marinemuseet
Battle of Horten Harbour
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Horten_Harbour
軍艦旗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E6%97%97
自衛隊ペルシャ湾派遣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E6%B9%BE%E6%B4%BE%E9%81%A3
機雷戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7%E6%88%A6
朝鮮戦争における対機雷戦
https://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/002.pdf
機雷敷設艦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7%E6%95%B7%E8%A8%AD%E8%89%A6
Battle of Horten Harbour
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Horten_Harbour
HNoMS Olav Tryggvason
https://en.wikipedia.org/wiki/HNoMS_Olav_Tryggvason
旅順攻囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
旅順港閉塞作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%B8%AF%E9%96%89%E5%A1%9E%E4%BD%9C%E6%88%A6
秋山真之
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E4%B9%8B
キルナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%83%8A
Naval Museum (English)
http://forsvaretsmuseer.no/Marinemuseet/Naval-Museum-English
http://forsvaretsmuseer.no/Marinemuseet
Action in the Oslofjord
https://en.wikipedia.org/wiki/Action_in_the_Oslofjord
Rauoy fort
http://www.festningsverk.no/index.php/template-features/video-fra-festningsverk-no/festninger-og-kanonbatterier/rauoy-fort
Rauoy fort
https://no.wikipedia.org/wiki/Rau%C3%B8y_fort
ラオイ要塞
https://no.wikipedia.org/wiki/Rau%C3%B8y_fort
以下はオールボーについてのWIKIからの引用である。
「1940年のナチス・ドイツによるデンマークへの侵攻(ヴェーザー演習作戦)で、
オールボー飛行場は、ドイツ空軍の降下猟兵により電撃的に占領された。オールボーは落下傘部隊によって占領された世界初の都市であると言われている。
飛行場の占領により、ドイツ空軍がノルウェーに達することが可能となった。」
オールボー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%BC
デンマーク・ヴァイキングの末裔達の歴史を尋ねて4日目 オールボルグ
https://4travel.jp/travelogue/11541929
ドイツ難民33千人受入れたデンマーク1945-1948年 第二次世界大戦におけるドイツの占領、抵抗、解放と戦後 デンマークの戦争体験の記録と兵器を展示
https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/11316186
沿岸急行船で巡るボードー、オルネス、ネスナ、サンネスショーエン、ブレンネイスン、ロルヴィーク、トロンハイム、クリスチャンスン、モルデ、オーレスン、トルヴィーク、モーロイ、フローロとベルゲンの旅
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11274183/
ソラ空軍基地
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%A9%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0
「すでに三月、ノルウェー政府は、ドイツが(第三帝国の興亡3 P370 デンマーク、ノルウェー奪取)
When the German attack on Norway began, Battle Group 5 arrived with the heavy cruiser Blucher at the head across the Oslofjord on the night of April 9, 1940.
Rauoy was quickly notified of the German squadron observed by the Norwegian surveillance vessel Pol III.
About. At 23:30 1940-04-08 battery commander Captain Gullichsen on the south 15 cm battery observed the contours of two warships in the light cone from a 150 cm floodlight, identification was not possible.
At 23:32, the south battery opened a loose and then a warning shot 30 degrees in front of the bow of the front vessel.
The warships did not stop, but dazzled the fort with two floodlights.
At 23:35 south battery opened fire with grenade grenades towards the front vessel, firing ended after four shots at 23:42 as the fog was so dense that the shoreline was not visible.
About 05:30 1940-04-09 it was observed that soldiers were landed from two vessels in the Reef Bay on the eastern side of Rauoy.
After hard fighting where 45 Norwegian grenades were fired from Nordre's battery and approx. 2500 shots from the mitral lions. Two Norwegian soldiers fell during the fighting.
The German forces had 60 fallen (eyewitnesses say about 200) and one aircraft. [1] About. At 7:55 am, the fort was incorrectly told to surrender, later in the day the forces were dispatched from the island.
HNoMS Pol III
https://en.wikipedia.org/wiki/HNoMS_Pol_III