Images of 結城氏
JR古河駅から南西に徒歩20分、約22.4ヘクタ?ルを有する古河総合公園が在りその公園内に初代古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)の鴻巣御所(古河公方館)跡があります。
鎌倉幕府没落後の武士の棟梁となった足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は本貫地を下野足利荘とする関東武士ながら、当時の政治情勢として吉野に逃れた後醍醐天皇を主体とする勢力(南朝)と対決姿勢を執っている事情(南北朝時代)により自ら京都室町に幕府を創設します。
一方関東の統治については貞和5年(1349)、幕府の出先機関として鎌倉府を創設、尊氏はそれまで鎌倉駐在の長男義詮(よしあきら、1330~1367)を京都に呼び寄せ幕府にて政務を担当させ、替わりに二男基氏(もとうじ、1340~1367)を鎌倉に下向させ鎌倉公方として、また上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)・高師冬(こうの・もろふゆ)を関東執事(後の関東管領)として基氏を補佐する体制を構築することになります。
時は流れ基氏の曾孫である四代鎌倉公方足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)は時の将軍義教(よしのり、1394~1441)と対立、関東管領上杉憲実(うえすぎ・のりざね、1410~1466)も氏持から離反、永享11年(1439)持氏は自害に追い込まれます。(永享の乱)
永享12年(1440)持氏の遺児安王丸・春王丸は持氏残党に擁立され、結城氏朝(ゆうき・うじとも)に迎えられ挙兵しますが、上杉憲実弟清方ら幕府勢の攻撃で落城、二人の遺児は捕えられ京都へ移送中に斬首されます。
関東管領上杉憲実はもう一人の遺児である万寿丸(後の足利成氏)を迎え、幕府の認可の元鎌倉府の再建を実現します。
しかし、永享の乱・結城合戦で没落した結城氏ら関東諸侍の復権をめざし、同時に関東管領によって実質的に運営されてきた鎌倉府の体制に自らの指導力を示そうとする成氏と上杉氏家臣である長尾・太田両氏の権力争いが宝徳2年(1450)の江の島合戦を引き起こし、成氏は江の島に逃れる事になります。
成氏はこの合戦で逃亡した管領の上杉憲忠(うえすぎ・のりただ、1433~1455)の帰参と長尾・太田の誅伐を幕府に願ったものの、事態は収拾せず、遂には上杉氏主導によってようやく収拾されることとなります。
享徳3年(1454)、成氏が範忠を御所に呼び寄せて謀殺、これにより以後28年年間に及ぶ享徳の乱が勃発します、憲忠の後を継いだ弟の房顕は上野国平井城に拠り成氏に対抗します。
状況を重く見た幕府は成氏討伐を決定、駿河国守護である今川範忠(いまがわ・のりただ)に出陣を命じます
一方成氏は上杉氏攻略のため参陣している間に留守にしていた鎌倉を範忠に占拠され、鎌倉に戻ることを断念して、やむなく下総国古河城に移りここを本拠とします。(古河公方)
長禄2年(1458)幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄である足利政知(あしかが・まさとも、1435~1491)を新たな鎌倉公方として東下させますが政知は上杉氏の内紛により鎌倉に入ることができず、伊豆国堀越に留まり同地に御所をもうけます。(堀越公方)
以降主として下総・上総・安房・下野・常陸を勢力圏とする古河公方と主に
相模・武蔵・上野を勢力圏とし幕府支持を得た山内扇谷両上杉氏に加えて伊豆を勢力とする堀越公方とが関東を東西に二分して覇権を求めて争います。
そして文明14年(1483)、古河公方と幕府の和睦が成立するまで、長尾春景の乱(山内上杉氏家宰職に就任できなかった春景を巡る内紛)が関東全域にわたって戦乱の波が激しく吹き荒れる事になります。