Images of 阿知使主
Expression阿頼耶識(あらやしき)とは大乗仏教における概念で、人間の生が立ち上がる根本にあるところと言われている。阿頼耶識、ālaya(アーラヤ) の語義は、住み家や場所という意味があり、そこに一切諸法を生ずる種子を内蔵していることを表すことから、蔵識(くらしき)と言われることもある。阿頼耶識は、『大方広仏華厳経』『大乗入楞伽経』などの大乗仏教の経典における唯識論の領域で言及されている。唯識論で説かれている識は全部で八つ。「眼識」、「耳識」、「鼻識」、「舌識」、「身識」などの身体的な感覚である五識に、精神活動を行う「意識」、そして無意識に属し、自己・自我に執着して、煩悩・我執を生じさせると言われる「末那識」、さらにそこより深く、他の識からくる全ての情報を海の深海のように蓄積していき、あらゆるものを現象させるものが「阿頼耶識」だ。井筒俊彦は、『意識と本質』の冒頭で、「意識とは事物事象の本質を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するところに生起する内的状態」と言う。そして、その後にサルトルの『嘔吐』を引用する。「ついさっき私は公園にいた。マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向かって坐っていた。」このサルトルのテキストは、意識が何もつかんでいない状態で、阿頼耶識に触れている感覚質を言語化したものと言える。 僕も同じような体験がある。ある都内のイタリアンレストランで食事をしていたところ、急に全身の力が抜けた。いま存在しているゲシュッタルトの世界のすべての意味内容が相対化されて、なにかを指向することが難しくなり、ただ重力だけが自分を支配するような感じになった。しかし怖さはなく、奇妙であり、笑いと無が同時にやってくるような絶妙なブレンドの感覚質だった。僕は一人では立っていられなくなって、おそらくその場に跪いて、しばらく目を閉じていた。友人が一緒だったのでその場は処理してくれて社会的には助かった(笑)。サルトルはこのような体験を嘔吐と表現しているが、実はそれだけとも言えない。嘔吐の主人公は、このような変性意識に慣れていないというだけで、この阿頼耶識に触れた体験から得られるものは大きい。その深層意識と表層意識を二つ同時に機能させることで、クリエイティブが生まれてくる。それは資本主義社会において発揮できるものもあれば、ただ純粋に生活を楽しむために発揮されるものもあるだろう。井筒俊彦はさらに僧肇の『肇論』を引用して、ハイブリッドな様子をこう記述する。キーワード阿頼耶識、イブン・アラビー、本質論、アートマン、ブラフマン、シャンカラ、不二一元論、ヴェーダーンタ、形而上学、存在一性論、限定者、ナーガールジュナ、空観、中観、仮観、サルトル、嘔吐、井筒俊彦、意識と本質、ケンタウルス