Images of 1990年ブルガリア大国民議会選挙
19世紀から20世紀にかけての帝国主義時代にフランスは東南アジアの広大な領域を植民地化し、カンボジア、ラオス、ベトナムは「フランス領インドシナ」に属した。WW2では一時期タイの領土となったりしたが、戦後は再びフランス領に復帰。しかし1949年から1953年にかけ建国の父、シハヌークを中心とする独立運動の結果、カンボジア王国が誕生する。
1970年、ベトナム戦争のあおりを受け、親米派のロン・ノルがクーデターを起こし、クメール共和国となる。シハヌークは北京に亡命、カンプチア民族統一戦線を結成するが、そのメンバーの一人がポルポトだった。ベトナム戦争が終結した1975年、後ろ盾を失ったロン・ノルはアメリカに亡命し、クメール・ルージュが支配する時代となる。クメール・ルージュのリーダーとなったポルポトは、貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった極端な原始共産制社会への回帰政策を実行し、旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派などは、政治犯収容所に収容したうえ虐殺した。ポルポトにより殺されたり、滅茶苦茶な政治により病死、餓死した国民は200万人とも300万人とも言われている。
1979年1月にベトナム軍を後ろ盾とするカンプチア救国民族統一戦線がカンボジアに侵攻してクメール・ルージュに勝利した後、クメール・ルージュはタイ国境の森の中に逃げ込んで内線状態となった。カンボジア中に埋められた地雷は、このときのもの。1990年、カンボジア各派が参加して「カンボジアに関する東京会議」が開催され、続く1991年、カンボジア和平パリ協定が開催され、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、議会選挙の実施など19ヶ国による調印に達し、20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。1993年に実施された選挙の結果、カンボジアは立憲君主国となりシハヌークが国王に復帰、その5年後、ポルポトの死により暗黒の時代は終結した。
やがて、政府が外国人観光客の入国を認めるようになると、多くの観光客がシェムリアップをアンコール遺跡群への観光拠点として集中するようになったため、シェムリアップ及びカンボジアの大きな収入源となる。こうして、20世紀の初頭に建てられたホテルが再び営業を始めたり、外国資本のホテルやレストランなどが雨後の竹の子のように乱立するようになった。
写真はバンテアイスレイに何体かあるデバター(女神)のひとつ、アプサラとは天女(天上界の踊り子)のことで少し違う。ところで、タイトルの東洋のモナリザに再会できたのかというと、 答えは半分YES、半分NOである。
出張含めこれで20回目の台湾訪問。2020年1月11日に4年毎の台湾総統選が実施されました。正式には中華民国第15任総統、副総統選挙と言います。日本の選挙の雰囲気と全然違い、前夜も夜中まで集会があり、老若男女関わらず選挙に高い関心がある姿は素晴らしいと感じました。また今回は中国の一国二制度政策に反対する台湾、それを支援する米国と中国との米中対立の代理選挙と言われています。
結果は中国と距離を置く蔡英文氏が817万票を獲得し圧勝しました。総統選の投票率は74.90%、総統選と同時に行われた立法院選挙は蔡英文氏の民進党が113議席中、単独過半数の61議席を獲得しました。最大野党・国民党は38議席でした。
日本の選挙と選挙活動、国民の意識など違いが多々あり、また日本の政治に対する意識の低さを痛感する旅でした。