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サンクトペテルブルクの歴史はピョートル大帝(1672-1725、写真1)が遷都を思い立った1703年に始まる。そして特にサンクトペテルブルグはドイツと切っても切れない関係にある。サンクトペテルブルグは2003年に建都300年祭が開催され、当市出身のプーチン大統領の指導により大規模な化粧直しが行われ、美しい町並みがよみがえった。
まずサンクトペテルブルグという名前がドイツ風である。歴史的には何度も名前が変わっているが、ピョートル大帝の名にちなんで「ペテルブルグ」(1713〜1918)が最初、その後1918年第1次大戦開戦後にドイツ風の名前を嫌って同じ意味でロシア語の「ペトログラード」に、革命後の1924年に「レニングラード」(レーニンの町)、1991年ソビエト崩壊後に聖(サンクト)を冠して現在の名称となった。
ピョートル大帝は1672年生まれ、ヨーロッパ漫遊の旅のあと、アムステルダムを年頭において1703年建都を開始させた。当時最先端のイタリア、フランスなどの建築家を呼び寄せ、バロック、クラシック、モダン様式の建築をちりばめ、北国ロシアにはなかった南国イタリア風の景観を完成させ、半強制的にこの町に住民を移住させた。
約300年続いたロマノフ王朝時代には女帝が4人いた。その中でエカテリーナ2世の功績は圧倒的に大きい。彼女はピョートル大帝の死後4年後、1729年に生まれている。ネフスキー通りに面したアレクサンドラ劇場の正面の公園に、エカテリーナ2世のブロンズ像(写真2)がある。皆さんご存知のように、彼女は生粋のドイツ人であり、ドイツの小さな公国からロシア皇太子に嫁入りしたにすぎない。
ピョートル大帝の娘エリザヴェータ女帝には子供がいなかったので、甥に当たる少年(後のピョートル3世)をドイツから皇太子として迎え入れた。この皇太子は極端なプロイセンびいきであっただけでなく、人格的にも残酷、政治的にも無能であった。エカテリーナ2世は血統的には帝位につくはずはなかった。しかし困難な境遇にあったこの賢明な、意思と責任感の強い女性は当初からロシア語を熱心に学んでロシア人になりきろうと努力を続け極力宮廷内に敵を作らないように行動したため、多くの人から愛され、同情されていた。
一方敵国の崇拝者であることを公言し、軍人に敵国の軍装を強要し、気分しだいでめちゃくちゃな命令を乱発し、自堕落な生活をおくる皇帝は、多くの人の危惧を招いた。廷臣たちの一部には、エカテリーナをかついでピョートルを廃位しなければ、国の将来が危ういという判断が生じ、ひそかにクーデターが準備された。そして1762年6月、ロシア史上最後の、数えて三つ目のクーデターによる女帝が誕生した。
美しい建築が秩序を持って建設された都市を見て歩くことは本当に楽しい、この町は建築の町と言われるプラハやウィーンと比較しても決してひけをとらない。サンクトペテルブルクが建設された18世紀初頭はヨーロッパではバロックからロココ建築が主流となっており、バロックとロココが融合した建築の代表はすでに紹介したエルミタージュの冬宮、エカテリーナ宮殿、華麗な青色のスモ−リヌィ修道院の聖堂(写真3) マリインスキー劇場に近いニコライ聖堂(写真4)があげられる。
エカテリーナ2世以後の支配者は古代ギリシャ・ローマ、そしてその再現であるルネッサンス建築を模したクラシック様式を好んだ。代表作はカザン聖堂(写真5)、イサック聖堂 (写真6−9)、ミハイル宮殿(写真10、11、現ロシア美術館)、アレクサンドリスキー劇場(写真12)があげられる。その後急速に多様化、複雑化していくわけであるが、建築史家は総称して折衷様式と呼んでいる。例としてマリインスキー劇場(写真14)、血の救世主教会(写真15−18)を紹介しておく。1881年改革派の皇帝アレクサンドル2世がこの地でテロリストの爆弾により殺害されたため、息子の3世が設計コンペにより建設させたもので、血の上の教会とも呼ばれる。16世紀に建設されたモスクワの赤の広場にある聖ワシリー寺院とよく似ているが、明らかにロシア教会の様式を踏襲している。何本ものネギ坊主が立っているが、これは実はほのおを表現したものであるそうだ。内装はモザイクによるイコン画で覆われており、総面積は7000平方メートルある。