Images of エッセネ派
ガリラヤ湖ほとりにて・・ ∠( ˙-˙ )/これらは所謂”仮説”です~。 【イエス・キリスト】や【バプテスマのヨハネ】が”ユダヤ教エッセネ派”に属していたのでは? ・・という”仮説”があります。 (結構良く言われます。歴史的な史実は確認できません。あまり言い過ぎると”自由主義神学のやから”になります。(笑) ちなみに「ブルトマン」とか言う変な ”学者”の説も殆ど裏ズけがありませ~ん。) 【聖書】からそれらを見てみましょう。 【ユダヤ教”エッセネ派”の特徴】=【バプテスマ、禁欲主義、独身主義(後に結婚は認められた)、律法厳守主義、エルサレム神殿体制に反対、終末思想、永遠の救い、光と闇の二元論、メシヤ待望、 天国と地獄?、天使と悪魔?】です。 _φ(◎-◎ー)当時の【ユダヤ教の”教え”】= 【律法厳守、メシヤ待望、最後は皆救われる、”パリサイ派の天使”、死者の復活はあり】と、このように 【ユダヤ教】でも”メシヤ待望、最後の救い、 天使”などもありました事を御注意下さい。 (これは”バビロン捕囚”以後追加されたものです。) 【バプテスマのヨハネ】 ★衣食住が質素で”禁欲的”~”ラクダの毛皮”食物は”イナゴと野蜜”荒野暮らし! ★”水のバプテスマ”を奨励・・”エッセネ派”で行われていた、身を清める為の”水のバプテスマ”を人々に奨励した。 ★”終末思想”~「終わりの日が来る。神の裁きの日が来るので、悔い改めよ。」 ★禁欲的な”荒野”に住み”断食祈祷”をしていた。 ★「メシヤを待望していたのでは??」 上記のように【聖書】(福音書)の中で、【バプテスマのヨハネ】が★”禁欲的”(荒野住まい、ラクダの毛皮の服、イナゴと野蜜で生活)★”水のバプテスマ”~人々に”悔い改めのバプテスマを”ヨルダン川”で授ける。★”終末論”~「終わりの最後の審判の日が近ずいた」★”エルサレム神殿体制批判”~”パリサイ派””祭司サドカイ派”を「まむしの末】呼ばわり。★”メシヤ待望”~「わたしの後から来る方は、あなたがたに火と聖霊のバプテスマを授ける。・・」というようにかなり明らかな【ユダヤ教エッセネ派】の思想を現しております。 しかし【光と闇の二元論】的な事は”聖書”の中からは感じられません。 【バプテスマのヨハネ】は 【イエス・キリスト】を【罪を取り除く神の子羊】と呼び【メシヤ】と認め、【メシヤを待望】していた思想が読み取れます。 【エッセネ派】で言われる【メシヤ】は”超常現象的(笑)に天から降ってくる”メシヤ”ではなく、民間の人々の中から”現れるメシヤ観”であり、 【キリスト】に「おいでになる方はあなたでしょうか?それとも他に待つべきでしょうか?」と尋ねた所に見える気がしますが? (ルカ福音書7章20) 『ふたりはみもとに来て言った。『バプテスマのヨハネから遣わされてまいりましt。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなお他の方を待つべきでしょうか」とヨハネが申しております。 【イエス・キリスト】 ★【荒野での悪魔の試み】 「荒野で40日40夜断食をし、悪魔の試みを受ける」 (マルコによる福音書1章12~13節) 『そしてすぐに御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは40日間、荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野のけものと一緒におられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。』 ここはくどいので簡単にですが、”ユダの荒野” (死海沿岸・クムラン近く)で、40日の断食修行をし”サタン”の試みを受ける 【キリスト】! まるで”エッセネ派”の修行の様子です。 ★【バプテスマ】を奨励! 自らも”バプテスマ”を受ける。 (マルコ福音書1章9節) 『そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを受けた。』 (マルコ福音書16章15~16節) 『それから、イエスは彼らにこう言われた。 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます。」 ★【独身】~と考えられます。 ★【禁欲主義】~”キリスト”は ”禁欲主義”では無かったと言われるが、それは ”断食”を弟子にあまりさせなかった為で、 徹底した内面からの”禁欲奨励者”でもあった。 【イエス・キリスト】の”禁欲主義”は 【エッセネ派】より”おおらか”で ”内面からの禁欲”を重視したものだった。 (でなかったら、”カソリック”修道院が誕生する筈が無い) (マタイによる福音書5章27~30節) 『姦淫してはならない』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯してのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、良いからです。』 (情欲の非定) (マタイ5章39節) 『悪い物に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』(非暴力主義の徹底) (マタイ19章21節) 『イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って貧しい人に施しなさ。そうすればあなたは天に宝を積む事になります。そのうえで私に着いてきなさい。」 (マタイ19章23節) 『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入る事は難しい事です。」まことに、あなたがたにもう一度告げます。「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。』(金銭欲の非定) (マタイ福音書21章26節) 『あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたい者は、みなに仕える者に成りなさい。』(権力欲の非定) ★【生活形態】~【キリスト】も ”家や財産”を余り所有していた様子が見られず、一説では”ペテロの家で共同生活”をしていたとも言われ、”質素で禁欲的”であった。 (財産などを豪華に所有した様子が無い。宴会などを好んだが、弟子や他の人にも”金銭欲”を戒め、財産を捨てる事を奨励していた。) ★【善悪・光と闇の二元論】~ 【神の子イエス・キリスト】に対し、この世を支配するという”サタン”が居た。 (天使(御使い)については、【聖書】の”アブラハム”時代から記述があり、”天使(御使い)”の存在は古代から認められていた。 ”サタン”概念は【新約聖書】からではないか?) _ φ(◎-◎ー)しかし実の所、【福音書】で 【キリスト】が”サタン”に言及する所はそれほど多くなく、【キリストの言葉】に”エッセネ派”で言う 【光と闇】などの言葉は使用されて居ず、ここら辺は【イエス・キリスト】と【エッセネ派】にかなり”相違点”があります。 【キリストの言葉】は”現実生活に根差すものが多く ”【光と闇、善と悪】の対立のような”グノーシス的・形而上学的な言葉は超少ないです。 (ヨハネ福音書12章46節) 『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中に留まる事が無い為です。』 (ヨハネ福音書1章4~5節) 『この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。』 (ルカ福音書4章41節) 『また悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお赦しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。』 (ルカ福音書22章3節) 『さて、十に弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った。』 (マタイ福音書4章14~16節) 『これは預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち「ゼブルンの地とナフタリの地。湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗闇に座っている民は偉大な光を見、死の地と死の影に座っていた人々に光が上った。』(キリスト降臨の預言) 【エッセネ派的・光と闇の対立】は【キリスト】の言葉には殆ど見られず、【ヨハネ福音書】のみ大目に登場します。 【ヨハネ福音書】は最も遅く2~3世紀に成立したのであり、”自由主義の一派による節では 【ヨハネ共同体】(”エッセネ派”流れと言われる”仮想”の団体)によって記された(超仮説)という事で、【ギリシャ哲学の”グノーシス”(形而上学的哲学)】の影響があるとも言われます。(仮説) 良く言われる、【善悪二元論】は【聖書】全体に良く現され、特に【キリストの教え】に偏ったものでなく”アダムとイブ”から【善と悪】それを処罰する【神】という構図があります。 (ノアの洪水、ソドムとゴモラ) また、【悪霊】については、古代では【ユダヤ教】でも存在が認められたもので、『病気の原因が”悪霊”』と古代では(世界中で信じられていました。 (マルコ福音書3章22~23節) 『また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれたいる」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊を追い出しているのだ。」と言った。そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。」』 (ここでは、”律法学者達”も”悪霊”を認めていた様子が解り、当時は「病気は精神病が”悪霊”の仕業と普通に皆が思っていた」事が解ります。) (ヨハネ福音書8章44節) 『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出たのであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初じめから人殺しであり、真理に立っていません。彼のうちには真理が無いからです。・・』 (ヨハネ福音書9章5節) 『わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』 ★【律法重視】 【キリスト】は”ユダヤ人”として”律法を重視”していたが、”パリサイ派”のように、異常なほど ”四角四面に律法を守る”というのではなく、 ”おおらか”な解釈で、 ”内面の正しさ”を重視していた。 この【律法】にたいする態度に【エッセネ派】とも【パリサイ派】とも違う 【キリストのオリジナリティー】が現れています。 両者は厳しいくらいの【律法厳守】でした。 (マタイによる福音書5章17~18節) 『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことの、あなたがたに告げます。天地が滅び失せないかぎり、律法の中の一点一画でもけしてすたれる事はありません。全部が成就されます。 だから戒めのうちに最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るのを人に教えたりする者は、天の御国で最も小さい者と言われます。 しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と言われます。 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、あなたがたはけして天の御国に入る事が出来ません。』 ★【終末思想】~【キリスト】は 【最後の審判、終末の到来】を預言していた。 これについては【キリスト】は【終末思想】をハッキリ打ちだしていました。また”10人の乙女の喩”など多くの喩の中でも『終末の日、最後の審判、救い』について語っています。 (マタイによる福音書4章17節) 『この時から、イエスは宣教を開始した言われた。悔い改めなさい。終わりの日が近ずいたから。』 (マタイ福音書24章3~42節)