Images of 北進駅
1世紀末ころに武内宿禰が「東のひなに日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言して、ヤマトタケルにはじまるヤマトの東国侵攻が始まった。ヤマト朝廷による近畿地方の統一国家は350年ころに完成されたが、東北地方の北半部は平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは近畿王権(ヤマト)の支配のおよばない国であった。とくに、774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起して攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい、多賀城を焼き払った。
その後もアテルイとモレは789年の巣伏の戦いで、寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破っている。
これらの時代のヤマト東北侵攻の拠点、多賀城を訪ねるには東北本線の「国府多賀城駅」が出発点であるが、数十年前の下宿の近くと思い込んで仙石線の「多賀城駅」に降りて、タクシー利用の羽目に陥った。
東北本線の国府多賀城駅から歩きはじめると、駅前の館前遺跡をとおり、10数分で芭蕉も訪れた日本三古碑のひとつ「多賀城の碑」がある。ここから北を見ると表紙写真のように幅広い石段がみえ、その上に政庁跡があり、さらにその東北に接して作貫地区役所跡や、掘立柱建築の大畑地区役所跡があり、これらを囲んで方約1kmの土塁がある。東門跡近くには巾数メートルの古代の直線道路がある。
(コースを逆にとり標高の高い陸奥総社宮や荒脛巾神社から歩くと下りばかりで楽だが、道標はなく、案内所でもらったマンガ風の散策マップは不正確で迷いやすい。)
土塁の外側の東北部、鬼門には豪壮な陸奥総社宮があり、エミシが信仰していた別項旅行記の荒脛巾神社もこのちかくで、エミシの神でエミシを抑えるということらしい。
この陸奥総宮は東北地方の全ての延喜式内社を統べるそうで、式内社100社の名が入り口階段の両側に列記されていて、陸奥総宮の祭神はこれら100社の祭神全部だそうである。式内社の100社のなかで興味深いのは宮城県桃生郡桃生町大田の「日高見神社」である。日高見神社がある桃生町(現石巻市)あたりの北上川下流部の穀倉地帯が、日高見国の中心だったのかもしれない。
武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言している(書紀)。景行天皇の皇子・ヤマトタケルにはじまるヤマトの東征はこうして始まったが、平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは、東北地方の北半部は日本の支配のおよばない国であった。
このヤマトの東北地方進出の歴史をみると、仁徳天皇が367年頃に田道将軍を、637年には舒明天皇が上毛野君片名軍をそれぞれ派遣したが、いずれもエミシに大敗している。その後、724年に大野東人が多賀城を築き、続いて牡鹿柵(737年)、桃生城(759年)伊治城(761年)など北進の基地が築かれたが、774年に海道エミシが蜂起(38年戦争)して以後、エミシが攻勢に転じ、780年にはエミシの伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)、多賀城を焼き払った。というのが大雑把な歴史である。
このあと、少人数で5万の大軍を破ったアテルイの活躍がある。別項「奥州市水沢、アテルイ・・・・・・」旅行記。
なお、この多賀城の鎮守府と国府は8世紀はじめから10世紀半ばまで存続したが、その間780年にはエミシの伊治公呰麻呂に焼き亡ぼされ、869年には貞観地震で被害を受けている。
多賀城跡で話しかけてくるボランティアガイドは、このような攻防の歴史をヤマトの立場から「エミシの反乱」と説明していたのは不愉快だった。先住民のエミシが侵略者の圧制に抵抗したという栄光の歴史を、体制内の住民の“反乱”と扱っては東北人の先祖に申し訳なかろう。
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