Images of 本堂茂親
JR中央線三鷹駅南口からバス10分、下車後しばらく歩きますと調布市との境に幕末に新選組局長として活躍した近藤勇(こんどう・ いさみ)生家跡を訪問しました。
近藤勇は天保5年(1834)多摩郡上石原村辻の宮川九次郎の三男(幼名宮川勝五郎)として生まれます。そして15歳で天然理心流(てんねんりしんりゅう)の近藤周助に入門、翌年に理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗る事になります。
当時、宮川家の屋敷は、人見街道と小金井に通じる辻にあり、面積約7,000m2、建物は母屋165m2の他蔵屋敷など数棟、木々や竹が茂っていたといいます。
昭和18年の戦争中に調布飛行場に隣接しているため取り壊され、現在は屋敷の東南隅に勇が産湯に使った井戸が残るのみですが、生家跡を市史跡として保存しています。(調布市HP)
また近隣の龍源寺には近藤勇の墓があります。
龍源寺は、天保元年(1644)に武蔵府中高安寺第4世家山東伝が開創したといわれています。開基は三鷹市の大沢村周辺をひらいた箕輪将監です。
門前には近藤勇の像があり、本堂手前には左右になった樹齢300年と推定される大銀杏があり、本堂の裏手の墓地には東京都指定旧跡の近藤勇の墓があります。(調布市HP)
自分は近藤勇という歴史上有名な人物が東京都多摩地区にいた事は漠然と承知していました。例えば幕末に於ける将軍家茂が上洛の際、警護の為に編成された浪人組の一員として随行、やがて京都壬生(みぶ)を拠点にして京都を見廻る新選組の局長であるとの認識でした。
今回の生家訪問では生まれてから浪人組に入るまでの経緯を知る事ができました。即ち「天然理心流の免許取得」がキーワードで剣術を通じて後の土方歳三(日野・石田村在)を知る契機となり新選組展開に繋がったと思いす。
自分としては新しい秩序の流れに抵抗し、凋落の一途をたどる幕府体制を支える近藤勇の終始変わらない姿勢の拠り所は何なのか知りたいところです。
神奈川県横須賀市東浦賀2にある専福寺は浄土宗のお寺で永昌山或寿院専福寺という。永正元年(1504年)、僧・槃誉久悦によって創建された。本尊は阿弥陀三尊である。この三尊像は高村光雲の祖で江戸時代の仏師・高村東雲の作である。
石段の途中に「呑龍上人宝前」碑がある。
本堂の前に、新しく造られた水かけ観音像と、小林一茶の日記の一節が刻まれた「寿女の碑」がある。文化3年(1806年)頃に一茶は初恋の人の菩提を弔うためにしばしば訪れたといわれる。しかし、その墓も関東大震災による山崩れで見つからなくなってしまっている。
本堂の脇には、浦賀町時代に町長となった回船問屋川津屋の太田又四郎の墓碑がある。
また、東叶神社の芭蕉碑を建てた福井貞斎の墓もある。明治3年(1870年)に没した。墓石には、「達磨忌の大根膾や摺りはなし」という辞世の句と、「何事も よしやあし屋に さはがしの 世をのがれて 行身こそ楽しき」という狂歌が刻まれている。
本堂屋根には鴟尾(しび)が上がっているが、鴟尾(しび)が上がっている伽藍は奈良(唐招提寺、東大寺)や今津(滋賀県)、砺波(富山県)などで見たが、いずれも瓦屋根であった。銅瓦葺きの屋根には珍しいだろう。
(表紙写真は専福寺本堂)