Images of 楊本範満
三島駅から伊豆箱根鉄道に揺られ韮山駅(伊豆の国市)下車、四方を山々に囲まれた盆地を20分ほど東進、北条早雲いわゆる伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき、1432~1519)が堀越公方・足利正知(あしかが・まさとも、1435~1491)の内紛に乗じて伊豆に攻め込み公方を滅ぼしそれまでの興国寺城から当地に入城、既存の城郭を大きく改修し本拠とした韮山城(にらやまじょう、静岡県伊豆の国市韮山)を訪ねました。
北条早雲、正しくは伊勢新九郎盛時、入道して早雲庵宗瑞、実名は不明と言われていますが、北条の姓は出自を正当化するために二代目当主氏綱(うじつな、1487~1541)時代からで、早雲自身は生涯北条姓は名乗っていませんが便宜上北条早雲と呼称します。
そもそも早雲の出自は諸説がありますが室町幕府政所の執事伊勢氏の庶流が有力で、早雲の妹の北川殿が駿河守護大名である今川義忠(いまがわ・よしただ、1436~1476)に嫁いでいる事情で早雲は駿河に下ったと言われています。
文明8年(1476)2月、義忠が遠江遠征中戦死、一族・家臣は幼児竜王丸(氏親、母親は北川殿で早雲の甥)と一族の小鹿範満(こじか・のりみつ、生誕不詳~1487)の支持派に分かれて争うことになります。
この内紛に乗じて外部勢力が介入、即ち既述の堀越公方は山内上杉政憲(うえすぎ・まさのり、生誕不詳~1487)を、扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)は小鹿氏との姻戚関係を理由に太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)をそれぞれ派遣します。
これら介入に対し早雲は甥の竜王丸に家督を相続する立場を敢えて採らず、後述するように両派の間を取りまとめ上杉政憲や太田道灌と交渉します。
つまり竜王丸が成人するまでは小鹿範満が後見することで決着を見ますが、11年後の長享元年(1487)11月に範満を武力で攻めたて自害に追い込み小鹿派を一掃し竜王丸を名実ともに今川家の家督とします。
上述の如く早雲は小鹿派を一掃した恩賞として今川家当主となった氏親(うじちか、1471~1526)から興国寺城(こうこくじじょう・沼津市)を与えられ、以降も依然として今川氏親の後見人である事は不変で、併せて今川家の家臣として国主の意向に従い幾度となく甲斐国や遠江国・三河国に出陣、今川氏領国の安定に貢献します。
然しながら早雲は今川家家臣の身分に留まらず既述の如く堀越公方内紛に乗じて韮山城を本拠とする中伊豆地方経営に傾注する一方、三浦・大森両氏を相模支配の支柱としていた扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ)が没し、甥の朝良(ともよし、1473~1518)が家督を引継ぎます。
このように家督を引き継いだ間隙を狙って明応4年(1495)9月、早雲は予め策を講じて扇谷上杉氏家臣・大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)居住の小田原城を襲い藤頼を追放、念願の相模進出の足掛かりを確保するに至りますが、当の早雲は小田原には移動せず彼は生涯韮山を離れることはありませんでした。
2022年5月30日追記
伊豆の国市観光協会による説明では下記のように紹介されています。
『 韮山城は戦国時代のはじまりと終わりにかかる城として知られており、戦国時代、伊勢宗瑞(通称:北条早雲)が、韮山の丘陵に築いた山城です。
明応2年(1493)、駿河の今川氏の客将であった伊勢宗瑞が、韮山の堀越公方を攻め、伊豆に進出しました。伊豆を平定した宗瑞は、韮山城を整備し、自らの本城としました。宗瑞の死後、2代目氏綱は、北条氏と改姓し、相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市)に拠点を移したことにより、韮山城は伊豆地域を治める支城になりましたが、今川氏や武田氏などの戦国大名による進出に対する防御の拠点として、重要な意味を持っていました。
天正18年(1590)3月、豊臣秀吉の小田原攻めでは、約4万4千人の軍勢に囲まれましたが、6月に開城するまで、3ヶ月にわたる籠城戦に耐え抜きました。
北条氏滅亡後は、徳川家康の家臣である内藤信成が韮山城に入城しますが、慶長6年(1601)に廃城となりました。廃城後は、韮山代官の御囲地となったため、当時の環境を大きく変えることなく、その姿をみることができます。』