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Chaka No Twitter The歴史列伝 そして傑作が生まれた 戦国最強伝説 真田三代 前編 なう 添付画像は信長の野望 創造 With Pkのもの 左から順に真田幸隆 真田昌幸 真田信繁 Http T Co 8tvok2nbxu
2021年8月13日(金)夕方の5時過ぎ、駅前のホテルにチェックインしてすぐに松本城観光に向かう。ホテルのフロントで宿泊者には松本城の入場券、700円のものを450円で販売しているので購入して向かう。これはお得。
歩いて10分ほどで松本城に向かうメインストリートの大名通りの突き当り、松本城正面入り口に到着。松本城は戦国時代の永正年間(1504年~20年)に造られた深志城が始まりで、天守が国宝指定された5城で最古の城。深志は松本の旧称で、扇状地の伏流水がわき出る場所を意味している。また、烏城(からすじょう)とも呼ばれるが、この表現は歴史的な文献などには存在しないそうだ。
深志城を築城したのは信濃守護家だった小笠原長時だが、1550年に武田信玄に敗れ、追放される。その後紆余曲折あるが、1582年の信長の死後に長時の三男の小笠原貞慶が奪還。この時、松本城と改名する。
天守を始め、城郭・城下町の整備を行ったのは1590年に入城した石川数正とその子康長。しかし、それも長く続かず、小笠原秀政・忠真、松平康長・康直、松平直政、堀田正盛と短いスパンで藩主は変わり、1642年に水野忠清が入封してようやく落ち着く。しかし、この水野家も6代目忠恒が抜刀事件を起こし、所領没収・改易となる。その後1724年に松平光慈が移封されてから幕末までは戸田松平家9代の支配下となった。
明治維新後には天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れたが、地元の有力者の尽力で買い戻され、難を逃れる。1903年(明治36年)から大正に掛けては明治の大修理が行われ、1930年(昭和5年)に国の史跡となる。さらにその6年後に当時の国宝に指定され、戦後の1952年に現在の国宝に改めて指定された。
安土桃山時代末期から江戸時代初期の間に建造された天守や乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が今も残るが、本丸御殿は松平光慈移封直後の1727年に焼失、1876年(明治9年)には二ノ丸御殿が全焼している。
1885年(明治18年)から1935年(昭和10年)の間は二の丸に松本中学校が置かれていた。1902年(明治35年)からは、1880年(明治13年)から農業試験場として使われていた本丸庭園が校庭として使われた。
松本城公園として整備する計画は現在の松本深志高校地への中学校移転前からあったが、実際に始まったのは戦後の1948年。二の丸を中央公園とし緑化し、市立博物館の脇に小動物園を設け、二の丸南部に大きな噴水が設置され、北西部三の丸には児童遊園が開園した。なお、市立博物館は1968年に日本民俗資料館として新築され、現在は松本市立博物館となっている。また、1987年に児童遊園は閉園された。
私は松本には何度か来ているが、この城に入るのは約40年前、独身時代に会社の同僚と一緒に来て以来。その時は安曇野のペンションに泊まり、黒部ダムから室堂まで行ったなあ~。雪が残ってたので、夏じゃなくてゴールデンウイークだわ。
城の正面入口の土橋を渡り二の丸跡に入り、正面の高麗門に進む。土橋は松本中学校があった時代に、外堀を渡る橋として架けられたのがルーツで、江戸時代にはなかったもの。現在外堀はこの土橋から西と白の西側が埋め立てられて残っていないが、復元も検討されている。高麗門は二の丸と本丸の間にある内堀を渡ったところにある門で、1989年に門に続く控塀と共に復元された。
高麗門を抜けると本丸への正面玄関である黒門前の桝形に出る。この枡形も高麗門復元の際に併せて復元された。チケット発売所があるが、すでに観覧券を持っているので見せて素通り。
黒門は本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒を冠した。見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が並ぶ。これは1960年にこの門が復興された際に、1950年から55年に掛けて行われた天守解体修理の際に保存された瓦を再利用したため。
黒門を抜けるとすぐ左手には宇宙ツツジ(下の写真1)があるが、日本人初の女性宇宙飛行士である向井千秋さんが、出身地である群馬県館林市から託されて1994年にスペースシャトルで宇宙に持って行ったツツジの種を発芽させたものの1株が、2000年に館林で行われた「全日本花いっぱい館林大会」を記念して松本市に送られた。松本市は「花いっぱい運動」の発祥地。
その反対側、右手奥には市川量造と小林有也のレリーフ(下の写真2)。このお二人は明治以降松本城の保存に功績のあった人です。市川量造氏は、上述の明治維新後の競売で天守が売られ、解体の危機に瀕した時に買戻しの中心となった方。小林有也氏は、同じく上述の明治の大修理を中心となって進めた方。
レリーフの奥には城の管理事務所や売店が入る建物があるが、その向かい、左手に水野忠直奉献灯籠がある(下の写真3)。松本藩主の忠清流水野家第3代の水野忠直が、4代将軍家綱の供養に寛永寺に奉納したもので、寛永寺が寺域を整理するに伴い競売にかけたものを松本出身の人が買い付け、1953年に松本城へ寄付した。
本丸庭園の向こうの天守を眺めながら管理事務所前を北に進むと本丸の北東角に戊辰戦争出兵紀念碑(下の写真4)。戊辰戦争では松本藩は官軍に加わり、宇都宮・北越・会津へ261名が出兵した。この碑は1904年(明治37年)に建てられたもの。さらに本丸庭園の北側を西に進むと戸田家の石灯籠と手水鉢(下の写真5)。藩主戸田松平家の江戸屋敷にあったもの。
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天守に登るが、続く