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室町幕府管領細川晴元(ほそかわ・はるもと)を江口の合戦で敗走させた三好長慶(みよし・ながよし)が天文22年(1553)に芥川城に入り自らの勢力を背景に勝手に将軍権力を代行しその結果芥川城は畿内政治の中心地となり、高槻城は芥川城の支城という位置付けでした。
永禄11年(1568)9月、美濃を支配下に治めた織田信長は足利義昭(あしかが・よしあき)を擁して岐阜を発ち、近江南部六角氏を破った後、三好長慶没後三好三人衆の一人三好長逸(みよし・ながやす)支配の芥川城を攻め、城にいた三好一族は本貫地である阿波に逃れます。
そして義昭と共に芥川城に入城した信長は三好長慶に代わる支配者として約1ケ月後に岐阜に帰るまでの内約15日を芥川城に滞在し畿内の政局を把握します。
信長が滞在中芥川城は甲賀より流浪の義昭に同道して支えてきた和田惟政(わだ・これまさ)に与えられ、その後惟政は自ら高槻城に移り本拠とし、芥川城は家臣の高山父子に預けます。
元亀2年(1571)義昭と信長が対立すると惟政は木村重(きむら・むらしげ)率いる軍勢と白井川原(大阪府茨木市)で戦い、後に茨木城主となる中川清秀(なかがわ・きよひで)により討取られます。
惟政没後家督を引き継いだ嫡男惟長(これなが)時代になると一族内訌で家中混乱し惟長は家臣と対立が続き、ついに元亀4年(1573)には高山右近(たかやま・うこん、1552~1615)との対決に発展、結果惟長は敗れ高槻城を去ることになります。
このように和田惟長に勝利し高槻城主となった右近は、信長が本能寺で明智光秀反乱で自害これを知った「中国返し」の秀吉が天王山の戦(山崎合戦)で光秀と対峙した際、いち早く秀吉に与し先鋒となり敵将斎藤利三(さいとう・としぞう)軍を攻めたて軍功を挙げ秀吉軍勝利に貢献します。
一方高槻城主となったキリシタン大名である高山右近は父飛騨守と共に熱心にキリスト教布教に努め、高槻を中心とした北摂に信仰が広まり、右近支配地における信徒が一層増えて城内に天主教会堂を建設するほどの発展を遂げます。
天正15年(1587)、秀吉によるバテレン追放令が施行されると秀吉からキリスト教を取るか大名を取るかの選択を迫られ、キリシタン大名は苦しい立場に追い込まれます。殆どの大名が棄教する中で右近はキリスト教を守るため知行地を失うことを選びその結果知行地の播磨国明石6万石を没収改易処分され以降右近は前田利家の庇護を受ける事となります。
右近が高槻を去り、慶長8年(1603)幕府を創設した徳川家康は豊臣色の強い畿内近国の城を整備して譜代家臣を大名として配置、その中で高槻は直轄となり代官支配、その後大坂の陣では兵站基地とされます。
そして豊臣没落後は譜代の内藤信正(ないとう・のぶまさ)が4万石で近江国長浜から、元和3年(1617)には土岐定義(とき・さだよし)が2万石で下総国守谷から転封し城郭の大改修と検地を実施、更に元和5年(1619)には松平家信(まつだいら・いえのぶ)が三河国形原より2万石で入封、途中直轄領を経て寛永13年(1636)5万1千石で岡部宣勝(おかべ・のぶかつ)が入部、そして松平信康(まつだいら・のぶやす)が3万6千石で入るなど藩主が短期間での交替が相次ぎます。
慶安2年(1649)に3万6千石を以て永井直清(ながい・なおきよ)が永井家初代藩主として入城し以後13代に亘り永井氏が藩主として高槻を支配し維新を迎える事になります。
槻の木高等学校敷地を背景に「高槻城跡」標柱と共に掲立された「高槻城跡」説明板には次の通り記載されています。
「高 槻 城 跡
高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居住としてからである。
永禄12年(1569)には和田惟政(わだ・これまさ)が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長(これなが)と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニア-ノを迎えて盛大な復活祭を催している。
その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大坂夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清(ながい・なおきよ)が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。
高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。
昭和63年6月 大阪府教育委員会 」
また、高槻市立しろあと歴史館にて入手した冊子「天下統一と高槻」にでは高山右近に関して次のように紹介されています。
『 高山氏の歩み
高山右近は、摂津国高山(大阪府豊野町)で天文21年(1552)頃に生まれたといいます。高山は、北摂の山あいに所在する盆地で、戦国時代には勝尾寺(大阪府箕面市)を領主とする高山荘という荘園がありました。この荘園で代官を務めていたのが高山氏です。
戦国時代は下克上の時代。荘園の代官たちの中には、守護などの有力者と関係を結び、」勢力の拡大を狙うものもいました。高山氏も例外ではなく、ときには暴力的に百姓を従えようとしています。
ただし、当時の百姓たちは自らも武装しており、暴力には簡単に屈しませんでした。高山荘では百姓たちが団結して勝尾寺に高山氏の代官解任を実現させたようで、その申状が伝わります。
永禄3年(1560)、この高山氏から突如、歴史上に名をあらわす人物がいます。右近の父・高山飛騨守で、三好長慶の武将・松永久秀に従って大和国宇陀郡奈良県宇陀市に攻め入り、沢城の城主に抜擢されました。
三好政権では、これまで中央で活躍する機会が無かった人々を積極的に登用していました。飛騨守もその一人でしょう。飛騨守は、日本のキリシタンの草分けとなり、長慶の家来たちにも大きな影響を与えることになりました。
高山右近
高山右近は、日本史を代表するキリシタン大名で、父の飛騨守とともに熱心な布教につとめました。高槻を中心とした北摂では信仰が広まり、茨木の千堤寺は隠れキリシタンの里として有名です。
しかし、天生15年(1587)の豊臣秀吉によるバテレン追放令で大名の地位を失います。その後は前田利家の客将として活躍するものの、慶長18年(1613)の徳川幕府によるキリシタン禁止令で翌年にフィリピン・マニラへ追放。現地で死去するという数奇な運命をたどりました。
また、右近は戦国を生き延びた武将として戦場を駆け巡り、茶の湯にも通じた人物でもありました。和田これ長を追って高槻城主となり、山崎合戦では秀吉に先鋒を望み、後続の部隊を絶って巧を独占しようとしたといいます。以降も、賤ヶ岳の合戦や小牧・長久手の戦いなどに臨み、前田家時代も秀吉の北条攻めでは八王子城(東京都)に猛攻撃を加え、関ヶ原の合戦に際しては軍勢を率いて北陸を転戦。また、茶人としては、千利休の高弟「利休七哲」の一人とされました。右近の茶については、織田信長の弟で茶人の織田長益(有楽斎)が「清の病」と呼び、その清潔な性格を評したといいます。
高山右近と高槻城下町
高山右近の時代、高槻には様々な人たちが暮らす城下町が成立したとみられ、宣教師は「城内に多数の住民あり、三階級の人即ち武士・兵士、および付近に米田を有する農夫並びに職工居住せる」と記しました。
また、右近は天正6年(1578)の荒木村重による織田信長への反乱に与みしたため、信長は安満山(高槻市安満)に陣を据え、高槻城を攻撃しました。この城の様子を宣教師は「水の充ちたる広大な堀と周囲の城壁」と評しており、高槻の城下町は堀で囲まれた総構という構造になっていた可能性があります。
三の丸の発掘調査では、右近時代と思われる幅24mにも及ぶ堀が捻出されています。また、二の丸でも江戸時代以前の幅19mを超える堀がブロック状の土塊で埋められた跡が確認されており、右近の城を考える手がかりになっています。
信長の高槻城攻めは、キリスト教の保護と引き換えに、右近が城を開いて集結しました・この後、信長は右近に堋城下の屋敷を与え流など重用。右近も織田政権が進めていた検地を高槻周辺で行い、城下町建設を進めるなど、有能な大名として信長に応えました。』