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田舎武者 のブログ109.NHK大河ドラマ(鎌倉殿の13人;1編) 令和4年2月24日、平和の祭典;冬の北京オリンピックが終了するや、ロシアのプーチン大統領は、待ちかねたようにウクライナに向けて計画的に侵攻した。先ず、国境が隣接する西部のドネツクを占領し、更に北部のキエフ、ハリコフ、南部のヘルソンに空爆、ミサイル、戦車により民衆を巻き添えにした非人道的な無差別攻撃が、続けられている。この21世紀において、決して許されず信じられない戦争が、今も繰り広げられている。戦争はエスカレートし、化学兵器や核をちらつかせる等、プーチンには、世界の国々の共感が得られない。 このような世界情勢の中、平和な日本では、NHKによる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映が始まった。このドラマは、鎌倉時代に上皇や公家をはじめ、取り巻く侍たちが入れ乱れ、大儀をかかげて殺戮を繰り返し、天下を取ろうとする。 実に無情で残忍・冷徹な世界感を描いたドラマである。時代と場所は変われど、現在でも残酷な侵略を行うロシアの大統領;プーチンの言動は、このドラマによく似た節が随所にある。ここに、小生なりにまとめてみたい。・背景(後白河法皇と平清盛の蜜月の終焉) 安元2年(1176)、後白河法皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、義兄・平清盛との間を取り持っていた建春門院(けんしゅんもんいん)が35歳で死去すると、後白河法皇と清盛との蜜月にかげりが見られるようになった。 そして、安元3年(1177)に鹿ヶ谷事件が起きる。5月、後白河法皇の近臣が京都東山鹿ヶ谷にある山荘に集まり、平家打倒の謀議を巡らせていたことが、密告され、計画が露見。激怒した清盛は、首謀者たちを捕らえ、斬首や配流先での虐殺に処した。 【後白河法皇】 【平清盛】 その後、治承2年(1178)、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に、皇子が誕生し、のちに安徳天皇となる。翌年閏7月に重盛が死去すると、同治承3年(1179)11月、ついに清盛はクーデターを起こして、鹿ケ谷事件の主謀者である後白河法皇を幽閉し、院政を停止した。治承4年(1180)、清盛は外孫の安徳天皇を即位させ、娘婿の高倉上皇による傀儡院政を樹立させ、権力の絶頂を迎える。しかし、平家への反発はますます大きくなった。(予想しなかった伊豆国の国主交代) 治承4年(1180)5月、平家打倒で起きた以仁王(もちひとおう)の乱で源頼政が敗死すると、代わって伊豆国の知行国主となったのは平時忠だった。「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平清盛の義弟である。それまで国主は、摂津源氏の武将である源頼政であった。治承2年(1178)には従三位に叙され、武門源氏初の公卿昇進を果たし、清盛と良好な関係を築いていた。そのとき、北条時政は、現地での在庁官人として、国主である源頼政に仕えており、当時、流人生活を送る“源頼朝”には都合がよかったと思われる。 なお、源頼朝は、1147年、源義朝の三男として藤原季範の娘(由良御前)との間に生まれ、平治の乱(1160)において、源義朝は平清盛に敗れ、都から落ち延びる途中、尾張国で家人に裏切られ謀殺され、その後、頼朝は助命され、伊豆国へ流された。 しかし“以仁王(もちひとおう)の乱”の後、事態は急変し、平時忠が国主となると、伊豆国の支配も平家の家人が重用され、代官である目代には山木兼隆が起用された。 平家から監視されていた頼朝は不安の中で過ごすようになり、在庁官人の“北条時政”も、苦しい立場に追いやられていた。 舞台となる伊豆国は、太平洋に張り出す半島であり、五畿七道の東海道に含まれる国であったが、伊豆国の大半は、都と坂東をつなぐ交通路から外れ、都から政治犯が流される流罪の地として利用されてきた。 北条氏の本拠地は、現在の静岡県伊豆の“国市韮山”で、駿河湾に注ぐ狩野川沿いに位置し、伊豆国内の政治・経済の中心地である国府三島とは舟を用いる交通の便がよい土地であった。 一方、伊豆国の中央は、有力な勢力をもつ“伊東祐親”(いとうひろちか)が、また天城山を越える南は“河津祐康”(こうずひろやす)が治め、彼らは、互いに親類関係を築いていた。 伊東祐親は、平家の総帥・平清盛の嫡男・重盛家の家人であり、その威光を背景に勢力を伸ばしていた。そして、平治元年(1159)で捕らえられ罪人となった”源頼朝”は、平家の息のかかった祐親の監視下で流人生活を送っていた。【源頼朝(大泉洋)】 【北条政子(小池栄子)】 第1回(伊豆国) 物語は、安政元年(1175)平家の総帥。平清盛が権勢をふるう時代。伊豆国の家人・北条時政は京の務めを終え、伊豆に戻った。時政は、京で平家一門とつながりのある”牧の方”(まきのかた;宮沢リエ)を後妻にしようと、約束をして戻ったのである。