Images of 内藤正成 (右京進)
駿府城(すんぷじょう、静岡県静岡市葵区駿府城公園)は征夷大将軍職を三男の秀忠(ひでただ、1579~1632)に譲り大御所となった徳川家康(とくがわ・いえやす、1543~1616)の居城ですが、戦国時代に駿河の他遠江及び三河の一部を併せ持った今川氏の本拠でもありました。
今川氏が義元(よしもと、1519~1560)の頃が絶頂期でしたが桶狭間で織田信長(おだ・のぶなが、1534~1582)の急襲を受け義元は討たれ領袖を失い統制が取れなくなった今川軍は這う這うの体で駿河に戻ります。
永禄11年(1568)今川義元の嫡男・氏真(うじざね、1538~1615)は武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)に駿河を追われ掛川城に立て籠もり、以降駿府は武田氏に占領されることになります。
天正10年(1582)武田氏滅亡により徳川家康が駿河の支配者となります。家康は五か国(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)の大守として当地を本拠と定め拠点にふさわしい城の築城に取り掛かります。即ち天正13年(1585)に築城に取り掛かり完成したのが天正17年(1589)ですが翌年には小田原北条氏討伐のため出陣、北条氏の降伏を受け豊臣秀吉の命により関東移封となり駿府城明け渡しとなります。
永年に亘る支配地から国替えされた徳川家康の旧領には秀吉直臣の武将らがそれぞれの地に配属され、駿府城主には豊臣政権の三中老の一人中村一氏(なかむら・かずうじ、生誕不詳~1600)が着任します。
時は流れ、秀吉が慶長3年(1598)死去後、家康対抗馬であった前田利家(まえだ・としいえ、1538~1599)の病死後の政治基盤は家康に移り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した家康の権力は盤石なものとなります。
秀吉恩顧の中村一氏(一氏は戦いの前夜に没し、嫡男忠一が家督を継ぐ)は関ヶ原の戦いでは地勢的背景もあり家康側に与して戦い、その功により加増されるものの外様ゆえ伯耆(鳥取県)に移封、江戸周辺を譜代に配置する方針に従って駿河には内藤信成(ないとう・のぶなり、1545~1612)が入り駿府城主となります。
慶長8年(1603)家康は征夷大将軍となりますが2年後には息子の秀忠に譲り、自らはかつて自分が今川家の証人(人質)として青年期を送った駿府に大御所として乗込みます。
秀忠に征夷大将軍職を譲ったとはいえ、家康は従来通りの権力を意のままに行使、大御所政治の府にふさわしい城にすべく従来の城郭に大改修をすると共に周辺の町並みも整備して近世城下町を実現させます。
家康の大御所としての最大の関心ごとは豊臣方の勢力を取除くことですがその執念が大坂冬の陣・夏の陣で秀頼と淀君の自害により目的が達せられ、元和2年(1616)に駿府城にて75歳の人生を閉じます。
家康没後の駿府城は十男の頼宣(よりのぶ、1602~1671)が元和5年まで在城、寛永元年(1624)三代将軍家光の弟忠長(ただなが、1606~1634)が55万石で入府しますが寛永8年(1631)行状不行届きとの理由により改易、以降駿府城には城主は封じられることはなく明治維新に至るまで幕府から城代が派遣されることになります。
2022年6月4日追記
現地案内板には次の通り説明がされています。
『 駿 府 城
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河国守護職に任じられて以降、駿河領は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、
徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1567)武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子の秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期のの城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、二ノ丸」、三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多数の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街の原形が造られました。
静岡市教育委員会 』