Images of 恋物語 (西尾維新)
1988年には田村が気に入っているという『ニューヨーク恋物語』に出演、同じ役を長く演じるのを嫌う田村としては珍しく、田村の願いで、2005年にはスペシャル版が製作された 1989年『眠狂四郎 恋しぐれ円月殺法!将軍家、若君乱心の謎を斬る!』で映像作品では約16年振りに眠狂四郎を演じた。2007年、映画の撮影に時間が掛かること、完成後には舞台挨拶に赴かなくてはならないことを嫌い、映画への出演を極力避けていたが、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け、またニューヨーク恋物語の製作陣が揃うということもあり、映画『ラストラブ』に出演、14年ぶりの映画出演となった また同年はスペシャルドラマ『忠臣蔵 音無しの剣』で1998年のスペシャル版『眠狂四郎』以来約10年振りの時代劇出演をした。撮影した映像が現場ですぐにチェック出来るシステムになってからは、1シーンごとに自ら映像をチェック、またよりよい作品にするため後半の俳優生活では撮影時間を朝の8時から夜の22時までの厳守としていた。1979年の『赤穂浪士』撮影時には、京都の撮影で3日間、東京で行われるドラマの撮影に4日間と、数か月間無休で働き続け、余りのハードなスケジュールに「雨で撮影が中止になれば休める、雨が降らないかなー 」と仕事熱心な田村としては珍しくぼやく場面があった その後はじっくり一つの役に取り組みたい、一つの役に集中したいと、出来るだけ掛け持ちでの出演を避けていた(1990年には『ニューヨーク恋物語II 男と女と』年末時代劇『勝海舟』を掛け持ち。)。時代劇では、月代(さかやき)のある中剃りのカツラを着けることは稀で、ほとんどの作品で総髪のカツラのみを着ける。若い頃の出演作品では中剃りのカツラ姿も見られる。『子連れ狼 その小さき手に』で拝一刀を演じた際には、『ニューヨーク恋物語』の時のような髪型にしたいと、ヘアーエクステンションを着けた 『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で大石内蔵助を演じた際には珍しく全編通して月代のある中剃りのカツラを着けた。自身の殺陣の基礎はバスケットボールと梅若流の能であると話していた。1978年、ピンク・レディーのケイが田村のファンであったことから、『ザ・ベストテン』の初放送の回に、同番組内でのピンク・レディーの楽曲1位獲得を祝う為、花束を携えゲスト出演した。『ニューヨーク恋物語』の撮影はオールニューヨークロケであったため、田村は夫人を現地に呼び寄せ約3ヵ月間生活した 『新ニューヨーク恋物語』撮影中、付き添っていた夫人と宿泊者専用のクラブで向かいあって座っていた際、夫人が目で合図をするので振り返ると『刑事コロンボ』を演じる俳優のピーター・フォークがおり、古畑任三郎と刑事コロンボが同じ場所に存在したことにおかしくなり、田村は部屋に帰ると大笑いした。『うちの子にかぎって…』への出演の経緯として、『くれない族の反乱』のプロデューサー八木康夫は、最終回で田村演じる佐伯とその子供が別れるシーンに感動した八木が、これまで無かった田村と子供の組み合わせもアリだと感じ、田村の事務所に『うちの子にかぎって…』への主演での出演を打診した 事務所には断られたが、八木がイメージする赤川次郎原作の『わが子はアイスキャンディー』の映像を持参し田村に直談判に行った。するとたまたまその作品を見て感銘を受けていた田村は、八木からこういう感じの作品にしたいと言われ出演を了承した。また田村はこのオファーを断れば再び小学生教師役のオファーは来ないだろうと思ったこと、自分と子供というこれまでに無かった組み合わでどんな化学反応になるか興味があったことを出演を承諾した理由に挙げた。『ニューヨーク恋物語』(1988年)で演じた田島雅之役をとても気に入っている その20年後の田島雅之をモチーフにしたのが、2007年公開の映画『ラストラブ』である。『過ぎし日のセレナーデ』では68歳の人物を演じるにあたり、メークに2時間以上かけて白髪の老人になり、ロケを見かけた人々も田村かどうか解らなかった。また役柄の為に髪を剃り、ハゲにしてもいいとまで言っていたが、そこまで田村にさせるわけにはいかないと、製作人に却下された。