Images of 意富禰希毛知命
2021年3月1日(月)12時半過ぎ、淀城址公園の2つの神社以外の部分を歩く。ただし、前にも書いたようにこの本丸跡に建造物は何も残っておらず、再建されたものもない。唯一、天守台と内堀の石垣の一部のみが残る。
稲葉神社の南側、一段と高くなっているところが天守台。二条城の天守を移築したと伝えられている。ひとつの天守台の中央に五重の天守を置き、四隅に二重櫓を配し、櫓と櫓を塀で結んだ形をした日本で唯一の変形連立型天守ともいうべき特異な構造をしていたと云うが異説もあるようだ。この天守は宝暦6年(1756年)の落雷により焼失、以後再建はされなかった。
天守台の北側に3本の石標が建つが、京阪本線の高架下にあったのと同じく三宅安兵衛遺志で1928年(昭和3年)に建てられたもので、他の場所にあったものをここに移設した。淀城之故址とあるのは、與杼神社参道になかば埋没し立っていたもので、2006年に碑文が全部読めるように建て直され、その後2011年頃ここに移された。もちろん、この淀城址を示すもの。
真ん中の淀小橋旧跡の石標で示す淀小橋はかつて淀の北側を流れていた宇治川に架かる橋で、京街道の一部だった。明治末期に宇治川の流路変更でなくなり、この石標が納所に建てられた。1990年に新しい石標に建て替えられ、この元の石標は淀城跡公園内に保管されたが、2006年頃與杼神社参道に再建され、その後2011年頃現在地に移設された。建て替えられた新しい石標は納所の六差路から中書島に向かう府道124号線を少し東に入ったところに建つ。
右端は唐人雁木跡の石標。唐人とは江戸時代、将軍の代替わりや慶事に際して朝鮮王から祝賀のため派遣された朝鮮通信使を指す。雁木とは船着場の階段の意。通信使は、対馬から瀬戸内海を経て大坂へ着き、大坂から川船に乗りかえ淀川を上り、淀城下で上陸し、休憩または宿泊後京都へ出発し、さらに東海道を江戸へ向かった。この上陸地点が唐人雁木。これも淀小橋旧跡の石標同様に、納所に建てられたものが同じ経緯をたどってここに来た。建て替えられた新しい石標は納所の六差路から北向かう道を少し入ったところに建つ。
天守台から本丸の南側から西側には内濠と石垣が残る。かつての淀城は淀川から水を引いて幾重にも堀が廻らされていたが、今ではその一部が残るのみとなっている。石垣の上にも河津桜が植えられ、いい感じ。
石垣の内側はジャングルジムなどの遊具がある児童公園でいくつかの石碑があるだけ。一番南側の淀・喜界ライオンズクラブ姉妹提携碑は2007年に鹿児島の喜界町のライオンズクラブが建立したもの。絆の文字が刻まれた台石は喜界島産の珊瑚礁(下の写真1)。奄美大島の東にある喜界島は平安時代から大宰府と密接に繋がっていた島で、1177年の平家を打倒しようとした鹿ケ谷の陰謀に加わった俊寛らが流されたと云われる島。
その北の淀城址石碑は1923年(大正12年)に稲葉侯御移封二百年記念会が建てたもの(表紙の写真)。その隣の慰霊碑(下の写真2)は、日清・日露の淀町出身戦没者を慰霊して1979年に遺族会が建立したもの。さらにその隣は田邊治之助君記念碑(下の写真3)。1937年(昭和12年)に有志により建立されたものだが、田邊治之助は幕末の淀藩の物頭役。淀城入城拒否の際の守衛を指揮していたのだが、たまたま警衛を破り侵入した者があり、藩主が朝敵の名を被らないようにその責任をとり自決したそうだ。戊辰戦争勃発70年に建立された。
ぐるっと回って北西櫓台石垣の上に建つのは明治天皇御駐蹕の碑。1928年(昭和3年)に建てられたものだが、明治天皇は,1868年の親征・海軍検閲のための大坂行幸の際にこの地休憩され、約2週間後の京都還御の際には淀城に宿泊されている。
明治天皇御駐蹕の碑から公園の北西部に進むと内濠のほとりに出る。この堀には淀姫と呼ばれる大型の蓮が生息しており、30㎝近くにもなる大型の蓮の花が7月から9月まで全体は桃色で、弁の内底に紅が入り、条線がはっきりしている花を咲かせるそうだが、この時は時季外れ。なお、この淀姫と云う蓮は廃城後の1885年(明治18年)に植えられたのが起源で、その後姿を消したが、2019年に淀観光協会によって再度植え付けられた。
12時45分頃、淀城址公園の観光終了し、帰路に就く。京阪電車の淀駅前で遅めの昼食を食べて、石清水八幡宮駅まで電車で戻る。淀駅は1910年(明治43年)に京阪本線開通と同時に開業。現在は高架駅だが、元々は約300m南にあった地上駅だった。1999年から淀駅を挟んだ約2㎞の高架化が行われ、2009年に下り線が高架化され、2011年に上り線も高架化された。
島式の複合型2面4線のホームを持ち、中央が本線、両サイドが待避線として使用される(下の写真4)。現在の駅舎は2009年の下り線の高架線化と同時に開設され、大阪寄りにある通常の改札口に加え、京都寄りに競馬開催時のみ営業する臨時改札口がある。
駅前、ロータリーに入る手前に淀小橋増築碑がある。1878年(明治11年)に淀の北側を横切って流れていた旧宇治川の川幅が広げられた時に架かっていた淀小橋を約30m延長したが、その時にはめ込まれていた台石だったもの。明治末期に宇治川の流路が変更された際に淀小橋はなくなったが、その際に淀城址内に設置され、2015年に現在地に移された。
また、ロータリーの一角には淀の水車の碑(モニュメント)もある。2016年末に京都淀ライオンズクラブが850万円かけて整備した直径4mの杉製のもの。淀の水車は1692年に淀を通過したオランダ人医師が「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いており、町のシンボルだった。水車は淀城築城前から灌漑用のものがあったと云うが、江戸時代には淀城の淀川沿いの城壁に2つあった。1つは淀小橋下流の宇治川に桂川が北から合流する辺り、もう1つはさらに下流の庭園近くだった。
淀駅から石清水八幡宮駅へ向かう途中、淀水路を過ぎ、宇治川橋梁に向けて南にカーブする手前に淀車庫が広がる(下の写真5)。1975年に着工し、1980年に使用開始したもので、開設時は収容能力58両だった。その後、1983年完成の第2期工事で西側に拡張され、さらに1997年完成の第3期工事で南側へも拡張され、現在の収容能力は320両となっている。
元々はさらに第4期工事で拡張が計画されていたが、車両の増強の見込みが立たなくなったことから中止され、代わりに南側に3棟の大型倉庫を核とする京阪淀ロジスティクスヤードが2016年に竣工した。
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淀河津桜の話、終了