Images of 隅田川両岸景色図巻
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隅田川[2002-09-08] 隅田川のことは よく知っているつもりだったが, いつも 地図を断片的に見ていて 全貌を知らなかったことに気がついたので,隅田川の全体が見える地図を作ってみた。(文字を一杯入れ過ぎて 見にくくなってしまった。失敗。)隅田川の橋と渡し跡 隅田川は, 北区の 新荒川大橋のすぐ下流にある「岩淵水門」で荒川と別れ,足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 東京東部の7つの区を通って東京湾に注ぐ, 全長およそ 23km の川である。したがって 荒川の支流 (分流 というべきか) ということになる。両側をコンクリートの護岸で固められていて, 「河原」というものが存在しない,言ってみれば 完全に「都市型」の川である。 水神大橋(荒川区〜墨田区)から南側は ほぼ直線的に東京湾(中央区)まで伸びているが,北側の上流部は 大きく蛇行しており, この川も かつては広い河原を持つ 大きな川だったらしいことを想像させる。実は 江戸時代より前は, ここは 利根川だった。隅田川は 利根川の下流の名前だった,ということを知る人は 少ないだろう。現在 利根川は, 関東平野を西から東に流れて, 銚子で直接太平洋(鹿島灘)に流れ出ているが, 徳川家康が江戸にやってきた頃の利根川は 途中から南に流れ,現在の隅田川のルートを通って 東京湾に注いでいた。家康の江戸入府(1590)から 60年以上かけて, いわゆる“利根川東遷”の大工事を行い,4代将軍家綱の時代になって ようやく現在のような 利根川・荒川・隅田川の形が完成した。この大規模な河川工事は, 江戸を利根川の水害から守り, 関東南部に新田を開発し,更には 外洋を通らない舟運を内陸に確保して 東北と関東との交通・輸送の体系を整えることにあったという。(利根川東遷に関しては「利根川百科事典」 の説明がわかりやすい。)したがって, 平安時代に 在原業平が, 名にしおわば いざ事とはむ 都鳥 わが想う人は ありやなしやとと詠んだ隅田川は, 実は 利根川の下流だったことになる。隅田川には 現在 25の橋が架かっているが (鉄道の橋などは除く),江戸時代末期には 橋の数は 5つだった。最初に架けられたのが 千住大橋で, 家康入府後まもなくのこと。それから60年余りの間, ここが隅田川の唯一の橋で, それ以外はすべて 渡し船によって通行していた。次いで 両国橋, 永代橋, 新大橋, 吾妻橋 の順で橋が架けられていったが,その時代のことなので 当然 いずれも木橋で, 老朽化したり 洪水などによってしばしば 壊れたり 流されたりした。 何回かの 江戸の大火の際には, いくつもの橋が焼け落ちている。そんな 隅田川の橋が 鉄橋に変わってきたのは 明治末期からだが,特に 関東大震災で大きな被害を受けたあとは, ほとんどの橋は 鉄橋となって復興された。隅田川に架かる橋の特徴は, どれ一つとして同じ外観のものがないことだろう。桁橋・トラス橋・アーチ橋・吊橋・斜張橋 など さまざまな形式の橋があって,「隅田川の橋めぐり」をする人も多いと聞く。日ノ出桟橋から 浅草まで水上バスに乗ると, これらの橋を水面から見ることができて楽しい。(隅田川の橋は 多くのサイトで紹介されているが,それぞれの橋の形については ここで一覧できる。)一方, 隅田川には 江戸時代には 18か所の 渡し船があったと言われる。上の地図は 文字が読みにくいので, 上流から順に書き出してみると 次のようになる。野新田の渡し, 小台の渡し, 新渡し, お茶屋の渡し, 汐入の渡し, 橋場の渡し,今戸の渡し, 竹屋の渡し, 山の宿の渡し, 駒形の渡し, 御厩の渡し,富士見の渡し, 御蔵橋の渡し, 横網の渡し, 一目の渡し, 安宅の渡し, 中州の渡し,佃の渡し, 勝鬨の渡しこれだけで 既に 19になるが, どれが江戸時代からの渡し跡なのかはよくわからない。ここに書かれた以外にも まだいくつかの渡しがあったようで,江戸から 明治・大正にかけて 都市部が郊外に向かって膨張していき, 交通量が増えるにつれて,必要に応じて 渡しの数が増えていったと考えられる。そして 橋が架けられていくにつれて 渡しは徐々に数を減らしていったのだが,一部の渡し船は ごく最近まで運航されていた。最後の渡し船は佃の渡しで, 昭和39年に廃止された。これらの 渡し船の跡には, 現在 石碑などが建てられているものがあり,隅田川沿いに散歩をすると, 思いがけないところで発見できるのが楽しい。前置きが長くなったが, 以下 渡しの跡をいくつか紹介する。 勝どきの渡し かちどきのわたし 所在地 中央区築地6-20-11 現在の月島1-4丁目は 明治25年(1892)勝どき1-4丁目は 同27年(1894)に完成した埋立地です。 銀座・築地方面と月島との間には,明治29年(1896)に「月島のわたし」が開設されましたが, 月島側の発展に伴い, 両地の交通はこれのみではさばけない状態となりました。 「かちどきのわたし」は明治38年(1905)1月の 旅順陥落祝捷会に際して, 京橋区の有志が設けて東京市に寄付し, 市は昭和15年(1940)6月の 勝鬨橋開通まで運行しました。 この碑は開設当時建てられたもので「わたし」はここから西南約200メートル先の今の海幸橋のたもとと, 勝どき1・3丁目の境とを往復していました。 昭和51年2月 中央区教育委員会勝どき橋の築地側(西側)に“海軍経理学校”の碑が建っているが,そのすぐ近くに“勝どきの渡し”の碑がある。築地と月島の間を結ぶ渡しだが, この渡しの命名にあたっては,面白いいきさつがあった。明治38年, 日露戦争で 苦戦の末にようやく 旅順が陥落して,日本中は 提灯行列が行われるほど沸き立った。これを記念して 近隣の市民有志が渡しを開設し, 後に東京市に寄付したものだという。「勝鬨」の名前は 戦争に勝って「勝どきの声をあげる」という表現から採ったもので,後に この場所に架けられた橋は 勝鬨橋 と名づけられ, ここの地名にまで「勝どき」の名前がつけられることになった。一般には 橋の名前は 地名から採られることが多いものだが, ここは渡し(橋)の名前が先にあって 地名はそれから採られた。勝鬨橋は 隅田川の一番下流に架けられた橋で, 2連のアーチ橋。大型船が航行するため 橋の中央部分を 両側にはね上げることができる,いわゆる‘可動橋’となっている。しかし 大型船の航行が少なくなり, 道路の通行量が多くなったため,昭和45年を最後に 橋を動かすことはなくなった。今も 可動部分の構造がそのまま残されていて, マニアが 橋を渡りながら写真を撮っている姿がみられる。 佃の渡し 佃島渡船跡 所在地 中央区湊3丁目 / 佃1-2-10 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲である。徳川初代将軍家康の時, 摂津国佃村(大阪市西淀区佃島)の漁師を招いて住わせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡しである。 明治9年7月には, 渡銭一人五厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年東京市の運営に移り, 昭和2年3月, 無賃の曳船渡船となった。この石碑は, この時に建てたものである。 昭和30年7月には一日70往復となったが, 同39年8月, 佃大橋の完成によって廃止された。 昭和60年2月 中央区教育委員会聖路加ガーデン方面から“佃大橋西”交差点を横切り 佃大橋の北側に回り込むと,隅田川のコンクリート護岸を背にして 「佃島渡船」と彫られた碑が ひっそりと建っている。横に 中央区が設置した説明板がなければ 見過ごしてしまうような 地味な石碑である。さらに, 佃大橋を渡って 対岸の佃側に出ると,ほぼ同じ位置(佃大橋の上流側)に 同じ形の石碑が建っている。佃大橋は 昭和38年に完成し, 江戸時代の初期から 300年余りの間続いた 渡し船の歴史が閉じた。 隅田川で最後まで残った渡し船だった。最後の頃は 東京都中央区が運航していたというが, 最後の渡し船を懐かしんでこれに乗ろうという客が 多数押しかけ,乗り場には 次のような貼り紙があったという。 320年のご愛顧に感謝 佃島渡船はきたる8月27日限りで引退します 佃新橋が同日開橋し皆様の足の便を図ります 長い間有難うございました 昭和39年1月 中央区役所佃大橋は 非常にシンプルな桁橋で, 見ていても あまり面白みがない。戦後初めて隅田川に架けられた橋だというから,デザインに凝っている余裕がなかったのだろうか。佃というと 古い町屋が並んでいる場所 というイメージがあるが,現実には 元・石川島播磨重工の工場跡地が 高層住宅街「大川端リバーシティ」に変身。30階以上の高層アパートが数棟並んでいて 様変わりである。その手前に 佃島灯台がある。江戸時代に建てられた灯台の復元だが, 背後の超高層アパートとの取り合わせが面白い。佃大橋を挟んで南西側は 月島だが, ここも近年“もんじゃ焼き”の店が50軒以上も並んだ「もんじゃタウン」となって にぎわっている。昔の雰囲気は すっかりなくなってしまった。 山の宿の渡し山の宿の渡し 台東区花川戸1丁目1番 隅田川渡船の一つに,「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は, 隅田川に船路を描き,「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を, 命名。別称は, 東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は, 江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ,行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く, 山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって, 江戸中期以降の開設とみなせるが, 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。 平成4年11月 台東区教育委員会「山の宿」は「やまのやど」ではなく「やまのしゅく」と読む。浅草・吾妻橋のたもとの 水上バス乗り場から 隅田公園に入り,東武鉄道の鉄橋をくぐったすぐ先に 大きな自然石に『山の宿の渡し跡』と刻まれた碑が目に入る。隅田川の堤防に背を向けている。浅草寺まで 300mほどの場所なので, ここの渡しは 隅田川東岸に住む人たちが浅草に参るための 貴重な通路になっていたのだろう。そんなわけで 交通量も多かったようで, 吾妻橋は 隅田川にかかる橋の中では 早く,江戸時代に架けられた。ただし 当初は民間の資金で架けたそうで, 通行料を徴収する 有料橋だった。渡し船は有料で運行していたので, 橋が有料となっても あまり抵抗はなかったのかもしれない。この橋は その後何回も流されて 架け替えを繰り返し, 明治中頃にようやく今の形の鉄橋 (トラス橋) になった。余談だが, 吾妻橋の東岸 高速道路の向こう側に アサヒビール本社ビルがある。ビルの形は オリンピックの聖火台のような 変な形だが, それ以上に屋上に黄色の不思議な物体が飾られているのが有名である。炎の形を現わしている と説明されているが, 見た感じから あるものを連想させて"◯◯ちビル" と呼ぶことが多い。隅田公園は, 隅田川の両岸にわたる 細長い公園だが,ホームレスの人たちがあちこちに見られ, 雰囲気が暗く 散歩していても楽しくない。 竹屋の渡し竹屋の渡し 台東区浅草7丁目1番 隅田公園 隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あたりとを結んでいた。『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。 「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことがその名の由来とされている。 「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間(1818-30)の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。 隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は風光明媚な地であったという。文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や 山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に,今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。 平成6年3月 台東区教育委員会言問橋から 隅田公園を 200mほど北に入った, 台東スポーツセンター手前の広場の片隅に山の宿の渡しと雰囲気の似た 自然石の碑が建っている。当時の渡し船は 当然のことだが,時刻表があって運行していたわけではなく,客が集まれば 適宜舟を出していた。舟が対岸に行っている時は 大声で呼び寄せたものらしい。一説によると, 船宿「竹屋」の女主人が 150m先の対岸の舟を呼ぶ「タケヤー!」の美声が有名だったという。言問橋は, 関東大震災後の 昭和3年に架けられた 桁橋で, ほとんど装飾がなくよく言えば すっきりした容姿の橋, 悪く言えば あまり面白くない橋。“言問”という橋の名前は, 在原業平の「名にしおわば,いざ言問わん・・・」に由来するという。 橋場の渡しあらかわの 史跡・文化財橋場の渡し (これより東へ約20メートル) 対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。 『江戸名所図会』に依ると, 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ,『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく, はっきりしていない。 大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。 荒川区教育委員会白鬚橋西詰交差点の北東角に この標識が建っている。上にも書かれているように, この渡しは 非常に歴史が古い。平安末期に 源頼朝が旗揚げした際には, 数千の船を集めて ここに“船橋”を架けた,という記録もあり, これは 隅田川最初の橋だった とも言える。大正初年に 地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して 木橋を架け, 通行料として一人1銭を徴収した。関東大震災後 昭和6年に 現在の鉄橋が架けられた。トラス構造(鉄骨を三角形に組んでいく)のアーチ型デザインで がっしりした 無骨な印象を与える。 鎧の渡し鎧の渡し跡 所在地 中央区日本橋小網町8・9番地 〜日本橋茅場町1丁目・日本橋兜町1番 鎧の渡しは, 江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で,明治5年(1872)に 鎧橋 が架けられるまで存続しました。 伝説によると, 平安の昔, 源頼義が奥州討伐の途中, ここで暴風逆浪にあい,よろいを海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ, 無事に渡ることができたので,以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。 「江戸名所図会」や安藤広重の「名所江戸百景」には, 渡しの図が描かれ,また, この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。 縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし 和朝亭 国盛 平成6年3月 中央区教育委員会鎧の渡しは, 厳密には 隅田川の渡しではなく, 日本橋川に架かる鎧橋 の場所にあった 渡しである。日本橋川は 隅田川の支流で, 京橋・日本橋 などが架かっている。隅田川・多摩川 など 大きな川には 多数の 渡し跡が残っているが,都心に残る 渡し跡は おそらくここだけではないかと思われるので,参考までに とり上げておく。場所は 日本橋兜町。すぐ前には 東京証券取引所があり, 日本の金融街の中心である。このような場所に 渡し船の跡があるとは, 全く場違いな印象を受ける。現在の日本橋川は, ほんの 10〜20mの幅で 何故こんな場所に 渡し船が必要だったのか不思議に感じる。鎧橋が最初に架かったのは明治5年で, それと前後して 米や油の取引所,銀行や株式取引所などが開業したということで, 現在の金融街は すでにこの頃にでき始めていた。 コメント或いはご意見がありましたら,《こちら》へ