Images of 元公
清閑寺 (せいかんじ)は清水寺から近い清水音羽山の中腹にある。知名度は高くないが日本の歴史、文学史の上で重要な寺だ。
「歌の中山寺」ともいわれるが歌の中山とは清水寺から清閑寺にいたる山路のこと。いい伝えでは清閑寺に住む真燕僧都が夕暮れに美しい女が一人で行くのを見て、ひとめぼれし今で言えばナンパだろうか、「清水への道は何れですか」と声をかけると女は「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべき」と言い捨てて消えてしまった。真燕僧都は女は仏の化身(けしん)だったのかと自分の不思議な体験を言い伝えた。その後不思議な女が歌を詠んだ清水寺から清閑寺にいたる山路を「歌の中山」と言うようになったそうだ。世阿弥(ぜあみ、1363−1443年)の傑作の一つで源氏物語の主人公・光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の12男・源融(みなもと の とおる、822−895年)の六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりをしみじみと謡い語る能「融」にも「歌の中山清閑寺」が登場する。室町時代には既に「歌の中山」が「清閑寺」の通称になっていたことがわかるが美人化身(けしん)の話は世阿弥の好みでもあったのだろう。
清閑寺境内にかつてあった茶室「郭公亭」(かっこうてい)は、幕末1858年、清水寺成就院住持で尊皇攘夷派の月照(げっしょう、1813−1858年)が大久保利通、木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」の一人西郷隆盛(1828−1877年)と密会した場所として知られている。
1858年、月照は安政の大獄で追われており、清閑寺で月照の都落ちの計画がたてられたとされ西郷と月照は二人で京都を脱出する。西郷、月照は薩摩の錦江湾に入水し月照は絶命、西郷のみ奇跡的に助かったが1877年、西南戦争で敗れて城山で自刃した。
与謝野鉄幹の父・礼巌(1823−1898年)は、妻を亡くした冬に、この寺に隠棲し
「年を経て 世にすてられし 身の幸は 人なき山の 花を見るかな」の歌碑を残しているがいろんな人が集まりいくつも逸話があるのはこの寺の魅力なのだろう。
(写真は西郷と月照が密談した清閑寺境内にあった茶室「郭公亭」)