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隠岐島(おきのしま)は、日本海に浮かぶ島根県所属の島々。島根半島から北東へ約65km、日本海に浮か島ぶ隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島である。島前(どうぜん)と呼ぶ3島・西ノ島、中ノ島、知夫里島、島後(どうご)の4島に約3万人が生活している。
「竹島」(韓国名・独島)は1905年(明治38年)から島根県隠岐島の所管であったが日本の敗戦後、1952年(昭和27年) 韓国大統領・李承晩の海洋主権宣言(李承晩ライン宣言)による領有主張から問題が発生し、現在最大の日韓問題となっている。「竹島」は、現在も日本では島根県隠岐郡隠岐の島町に属しており、隠岐島の北西約157kmに位置し、東西の2主島と数十の岩礁から成り、東京ドームの約5倍の広さ。島は飲料水にも乏しく人の常住には適さず、最近韓国が警備兵を常駐させているそうだが古代より無人島だった。魚介藻類など水産資源が豊富で経済水域200海里が明文規定された後は重要性が高まり、水産資源の確保の観点から日韓の争点になっている。竹島は古代より日韓ともに漁場の普通の無人島だった訳だが漁場争いで重要になったと言えるだろう。これは住民が追い出された北方領土とは事情が異なる。日韓両国とも領土の主張をまげることは無いだろうが、この領域は公海にするなどの妥協点が無いものだろうかと思う。
一方、隠岐島は古代から防衛上の重要拠点とされ、島でありながら、淡路、佐渡とともに「国」として扱われてきた。また、この島は流刑の島として、承久の乱を起こした後鳥羽上皇(1180−1239年)、倒幕に失敗した後醍醐天皇(1288−1339年)を始め、遣唐副使小野篁、前加賀守源頼房等、都の貴人、高官が多数配流された島でもある。
特に有名なのは隠岐島脱出に成功し「建武の中興」を成立させた後醍醐天皇と倒幕に失敗して流された後鳥羽上皇だろう。上皇は脱出を諦め逝去までの16年間を隠岐で暮らした。藤原定家をも凌ぐすぐれた歌人と言われている。
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世をおもふゆえに 物おもふ身は 後鳥羽上皇
この歌は百人一首で親しまれているおなじみの歌で上皇の無念さが良く伝わってくる。
島後では後醍醐天皇行在所といわれる隠岐国分寺(黒木御所説もある)と後鳥羽上皇を慰めるために始められ現在に至る牛突き、隠岐国の総本社玉若酢命神社、億岐家、樹齢2000年の八百杉、紺碧の日本海が鮮やかな白島海岸など、島前・西ノ島では国賀海岸、黒木御所などを観光したが、歴史・文化・自然ともに豊かな島だった。
(写真は白島海岸の光景)