Images of 秦朝元
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元景寺(げんけいじ、群馬県前橋市総社町植野)は総社初代藩主である秋元長朝(あきもと・ながとも、1546~1628)が父親である秋元景朝(あきもと・かげとも)の菩提を弔うため創建したのが始まりと言われています。
秋元氏の祖は下野守護の宇都宮頼網の子泰業が上総国周准郡秋元荘(現在の千葉県君津市)に居住したことで秋元姓を称しますがどのような経緯で深谷城主上杉氏に仕えるようになったのかは不明です。
秋元長朝が父景朝と共に仕えた深谷上杉氏は室町時代における鎌倉公方を補佐する山内上杉氏の庶流という名門ですが戦国時代中葉には小田原北条氏の勢力に抗することができず主家山内上杉氏は凋落の一途をたどります。
主家の没落を見限り深谷上杉氏は小田原北条氏に臣従する事になりますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では主君の上杉氏憲(うえすぎ・うじのり)は小田原城に詰めることになり、家老である長朝は杉田因幡(すぎた・いなば)と共に氏憲に代わり深谷城の守備に勤めます。
長朝は秀吉派遣軍を相手に奮戦し城を持ち応えるべくあらゆる手を尽くしますが小田原城の降伏開城に伴って浅野長政(あさの・ながまさ)を大将とする秀吉軍の猛攻を予見し長政の説得に応じて開城の道を選び深谷城と城下町を兵火から守ります。
戦後深谷上杉氏は一族して信濃に移住し帰農して久保田姓に改めますが、他方長朝は深谷上杉氏が消滅したことから蟄居していましたが、智将井伊直政(いい・なおまさ)の推挙により旗本として徳川家康に仕える事となり上野国碓氷郡に5百石の知行を与えられます。
以降家康に気に入られたのか度々の加増が行われるなか、慶長6年(1601)、とうとう上野国総社藩1万石の大名に列せられます。
小田原北条氏の陪臣の身から大名に列せられたのは極めて稀でこの秋元氏の他八王子城松木曲輪を守備し討死した猛将中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり)子息の後裔の久留里藩主黒田氏と松岡藩主中山氏だけとなります。
元和8年(1622)に嫡男泰朝に家督を譲り隠居し、寛永5年8月に83歳で総社城にて病死します。
尚長朝の子孫たちはその後甲斐国郡内谷村、武蔵国川越、出羽国山形と転封を重ね上野国舘林6万石で明治維新を迎え、その間歴代では喬知(たかとも)と涼朝(すけとも)の代に老中職を勤めるに至ります。
秋元氏廟の傍らに立てられている説明板には次の記載があります。
「秋元氏墓地
秋元氏は、上総国(現千葉県)周准郡秋元荘を領していたことから、秋元と守した。初代総社城主秋元長朝の父景朝は、関東管領上杉憲政に仕え、天正15(1587)年2月上野国(群馬県)植野勝山の地を与えられ、同年11月に病で没した。
長朝は天正18(1590)年、父景朝の供養のため元景寺を創建した。
慶長5(1600)年、長朝が関が原の戦功により総社の地を与えられたのは、ここが父景朝のゆかりの地であったことからだと考えられる。
景朝の戒名は、幼名である元景をとって春光院気山元景大居士と号した。
なお、景朝の墓と並んで、正室春(光巌院殿心月等清大姉・天正8年没)及び長朝の側室(心窓院殿華月芳永大師・寛永7年没)の墓もある。」