Images of 群馬県道209号貫前神社線
貫前神社(ぬきさき じんじゃ)は、群馬県富岡市に所在する上野國一之宮神社である。
該社は、日向國鵜戸神宮、及び、肥後國草部吉見神社と共に、参拝の為に石段を昇らず降る事で稀有の存在とされ、日本3大降り神社として著名である。
創建期に関し社伝に拠れば、該社は、毛野國碓氷郡鷺宮に於いて物部姓磯部氏が奉斎し、更に、安閑帝(あんかん てんのう)安閑元年(531年)3月15日に、現在地たる逢ケ丘綾女谷に祭祀奉斎創建とされ、兜、角等々を用い神事執行の神聖な場たる事が、発掘調査の際に該谷尻出土の斎龜胴片辺類に拠り実証されている、
更に、天武帝(てんむ てんのう)白鳳元年(661年)3月15日に該地遷座との記録を有し、社名 ヌキサキ とは和名類聚抄に ヌキノサ なる箇所に抜鉾貫前の地名が存在した史実が起源とされる。
該社、御祭神は、
経津主神(ふつぬしのかみ)
比売大神(ひめおおかみ)
の御2柱である。
創建初頭、勅使参向に依り祭事が施行され、更に國司赴任時に奉幣参拝一之宮として崇敬された記述が存在する。
第51代 平城帝(へいぜい てんのう)(宝亀5年(774年)9月25日〜弘仁15年(824年)8月5日)在任中たる大同元年(806年)に毛野國2戸の神封を下賜されたのが嚆矢として朝廷との関係が成立する。
更に、第54代 仁明帝(にんみょう てんのう)(弘仁元年(810)〜嘉祥3年(850年)5月4日)在位中に、該社に対し御神位を賜与され尊崇を示された。
従五位下
承和6年(839年)6月
正五位下 勲八等
年代不詳(839年〜859年)
従四位下
貞観元年(859年)1月27日
従四位上
貞観9年(868年)6月
正四位下
貞観18年(876年)4月10日
正四位上
元慶2年(878年)10月4日
従三位 勲七等
元慶4年(880年)5月25日
正三位
寛平3年(891年)8月28日
従二位 名神大社
延喜16年(916年)1月28日
正一位 勲五等
永仁元年(1293年)以前
因みに、神位昇進に就いて、従二位より、いきなり正一位に進位したとは考えにくい事であり、然して、此の間に於ける記録が滅失している為に現代に於いて該確認は困難だが、延喜16年から永仁元年に至る377年間中途に於いて、正二位、次いで、従一位と昇順位が在ったと観るのが順当であると推定される。
該社は古来より式年遷宮の存在で伊勢神宮と共に知られた存在だが、式年遷宮に関する最古の存在は萬寿2年(1025年)に、
前例ヲ以テ三拾年ヲ限ト為シ造替ス
なる記述資料が現存するが、然し、30年毎執行制では、造営建築物の朽廃が甚だしい為に、後に、7年毎執行制に改められたが、7年毎では改遷の都度、遷宮資金調達の点で困難が伴ふ事から、安土桃山時代たる天正年間(1573年〜1592年)に現行12年毎造替執行制が定着確立した。
平安時代晩期に朝廷勢力が衰退し、代りに鎌倉期となり、時代背景として、武家、及び、地方豪族が台頭した時代に於いて、此れらの勢力から格別の崇敬を受ける。
藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)(生没不詳・平安初期)
源 頼義(みなもとの よりよし)(永延2年(988年)〜承保2年(1075年)8月27日)
源 義家(みなもとの よしいえ)(長暦3年(1039年)〜嘉承元年1106年)8月4日)
新田義貞(にった よしさだ)(正安3年(1301年)?〜建武5年(1338年)8月17日)
足利尊氏(あしかが たかうじ)(嘉元3年(1305年)8月18日〜延文3年(1358年)6月7日)
文永の役(ぶんえいのえき)(文永11年(1274年)11月4日〜19日)で元高麗連合軍が我が国領土たる北九州一部地域侵攻に驚愕させられた鎌倉幕府、及び、朝廷は、元に対する戦勝祈願、及び、敵國降伏の為に、該社と共に、武蔵國氷川神社、伊豆國三島大社、駿河國富士浅間神社、若狭國若狭彦神社、美作國中山神社、及び、肥後國阿蘇神社に対し、該祈願一之宮として選定された。
徳川宗家は、崇敬と武威を天下に示す一環として全国の有力社寺修復に貢献したが、該社は朱印状に依り176石8斗が保障されたが、第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)が、寛永12年(1635年)に大規模な造改築を実施し、更に、第5代将軍 徳川綱吉(とくがわ つなよし)(正保3年(1646年)2月23日〜宝永6年(1706年)2月19日)が腐朽修理を目的に元禄11年(1698年)に大修理を実施した。
即ち、該神社は、江戸初期に於ける総漆塗精巧華麗な建造物群であり、江戸期初期に於ける駿河國駿府浅間神社→久能山東照宮→日光東照宮へと発展過程の建築美術であり、貫前造(ぬきさし つくり)と称する特異たる存在である。
第15代将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)公(天保8年(1837年)10月28日〜大正2年(1913年)11月22日)が朝廷に対し版籍奉還され京都朝廷が新政府を樹立したのは慶應4年(1868年)6月16日であり、元号も明治と代わり王政復古の大号令が発せられた。
明治新政府は該政治理念とされた平安期延喜式の原点に立ち戻るべく、 抜鉾 の神号を現在の 貫前 に変更を求められたのを嚆矢に、それ迄は神仏習合体で現在の東門が神宮寺正門だった事は該神社に対する鎮護たる存在だった事を証明するものであり、該神社は新政府に存在した一部狂信的一派に依る廃仏毀釈に拠り混迷させられる。
該神社内の神宮寺は不要施設として看做され解体され、該寺所蔵仏像群は薪の代用品として大部分は焼毀され、残りは外国人商人にタダ同然で処分された。
経蔵保管の鎌倉期以降奉納の経巻群は、同年9月に、前触れも無く岩鼻縣在住の港屋弥六なる人物が突然来訪し、全経巻を搬出し高田川河畔に於いて焼却するの暴挙に出たが、此の港屋弥六、名前から判断して士族などでは無く、たかだか一介の町人、乃至はソレ以下の身分階層ふぜいであり、ナラズ者だった公算が高いが、単なる無学軽薄なお騒がせ屋な与太者が、新政府の仏教否定を歪曲解釈をカサに暴挙に出た混迷を極めた当時の時代世相が垣間見られる。
該経巻一式が現存しておれば国宝、若しくは、国指定重要文化財指定を受けたものと推定される。
明治4年(1871年)7月1日 國幣中社指定
現在、平成25年(2013年)完成を目途に平成の大修理を実施。
上野國一之宮 貫前神社(ぬきさき じんじゃ)
富岡市一ノ宮1535
?: 0274−62−2009
上信電鉄上州一ノ宮駅 徒歩12分
http://nukisaki.kazelog.jp/blog/
http://www.nukisaki.or.jp/keidai.htm